第5話 コルチャック先生
コルチャック先生は愛おしげに小さな子どもを見つめた。彼女は、自分は本当に人魚の子どもだったのだと、一生懸命に話している。
「それで、名前はカヤっていうんです。金髪の人魚で、鱗は紺色と銀色で、歌がとっても上手なんですよ。私、お母さんのこと、好きになれそう」
「そうかい。よかったね」
「はい!」
先生は子どもの言うことはきちんと聞く人だったし、この頃にはもうモニカの魔法も本当のことだろうと思っていたから、このお伽話のような突飛な話も、真摯な姿勢で聞いていた。
何より、無口なモニカが自らこんなに話してくれたことが、先生は嬉しかった。
「他の子には内緒ですよ」
「もちろんだとも」
先生と秘密を共有したモニカもまた、嬉しそうであった。
モニカが去った後、先生は、『魔法使いカイチュシ』という自作の本の草稿を手に取った。これは、自己中心的で自分のために魔法を使う男の子カイチュシが、人のために魔法を使う心優しき女の子ゾーシャに出会って、心を入れ替えるお話である。
先生は教育者であり、医者であり、児童文学作家でもあるのだ。
モニカにはゾーシャのように、人の心を動かす力があると、コルチャック先生は思った。ただ彼女は、この物語にあるように、悪い魔法使いと勇敢に戦ったりはしなさそうだ。モニカはただ夢を見せる。どんな子どもにも分け隔てなく。
それから何とはなしに草稿に手を添えて、隣国に暮らすユダヤ人たちの境遇を憂えた。
去年、ドイツにて、多くのユダヤ人の本が、焚書されたらしい。
それというのも、国民国家社会主義ドイツ労働者党を率いるアドルフ・ヒトラーなる人物が、ドイツの首相に就任した影響だ。
ヒトラーの就任直後、ドイツの国会議事堂で放火事件があった。この全責任をヒトラーはユダヤ人に押し付け、ユダヤ人を糾弾した。更に緊急事態宣言を出し、どさくさに紛れてドイツ国家の全権を掌握したとか。その後はユダヤ人差別政策をいくつも強行していると聞く。
ポーランドのドイツとの緊張関係と領土問題は、今年春に結ばれた不可侵条約で一度解決したかに見えた。しかしヒトラーという男の言うことはどうにも信用ならないと、コルチャック先生は考えている。
ユダヤ人を公然と差別し、純粋なドイツ人とかいう曖昧な定義を用いてドイツ人だけが優れていると説く。そんな彼がもしここポーランドに攻め込んでくるようなことがあれば、ここの子どもたちは一体どうなるか……。
「本を焼く者はやがて人間を焼くようになる」──ユダヤ系ドイツ人の詩人、ハイネの言葉だ。
コルチャック先生は自分の書いた児童書が焼かれるさまを想像し、次いで子どもたちの行く末に思いを馳せた。
いや、と先生は思い直す。ポーランド共和国は不滅だ。長きに渡る故国喪失状態から復活した、不死鳥の如き国なのだから。そしてユダヤ人だってそうだ。エルサレムを追われて各地に散っても、こうしてしぶとく生き残ってきた。
先生は先の大戦でのイギリスの三枚舌外交を思い出して嘆息した。何がバルフォア宣言だ、イスラエルを復活させるなんて嘘ばかり言って、結局何も実現していないではないか。第一、あの土地はもうアラブ系などの他の民族にとっての故郷にもなっているのだから、ユダヤ人が無遠慮に押しかけたら、衝突が起こるのは必至。そこまでしてイスラエルを復活させて、一体何になるというのか。
まあ、そんなことは些細な問題だ。子どもたちはユダヤ系ポーランド人。古くからユダヤ人はポーランドを住処としてきた。言葉だってポーランド語とイディッシュ語(ユダヤ人コミュニティで用いられる、中欧から東欧系の言語とヘブライ語が混ざったような言語)を話すし、ポーランドへの愛国心だってある。今更この地を離れようなどとは、恐らく思わないだろう。
さて、いつも忙しい先生は、今日も所用があって、建物からクロフマルナ通りへと出た。
去り際にちょっと先生は振り返った。
百人もの孤児たちが暮らす、四角い白い建造物。先生が、医者として作家として稼いだお金をつぎ込んで開設したドム・シェロト。
ここで子どもたちは、どんな夢を見ているのだろう。どんな未来が彼らに訪れるのだろう。
ドム・シェロトは今日も賑やかで、ワルシャワの街もまた賑やかだった。コルチャック先生は、厭な考えを頭から追い払って、歩き出した。
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