第20話 次の標的

 やろうと思えば案外いけるもので、モニカの肺活量は目覚ましく進歩した。冬を越える頃には十五分くらい息を止められるようになっていた。

 人間界のモニカの能力が上がると、人魚界のモニカの体もそれに応じて成長する。そこでモニカはカヤに連れられて、川の中の色んなものを見た。

 代々伝わる剣や槍。戦利品の宝石やバッジ。琥珀の指輪。青い模様のついた陶器。

 川の向こう岸、人魚の世界の「もっと深いところ」も、ちらりと覗いた。そこは何故かヴィスワ川を潜って行かないと入ることができない、人魚の秘密の住処で、人魚たちはだいたいそこでのんびり暮らしているらしい。

 魚を取って食べたり、藻を解いて糸を作ったり、人間から貰った武器を磨いたり。モニカは物珍しいそれらの文化を、目を丸くして見て回った。


 そんなこんなしているうちに、人間界では、ドイツがチェコスロヴァキアに進軍、同国が解体された。このニュースはまたもや世界に衝撃を与えた。

 おかしいな、とモニカは思った。ドイツのズデーテン地方併合を許可する代わりに、ドイツはこれ以上戦争を引き起こすような真似はしないこと、という約束じゃなかったっけ。

 この頃からモニカは、夢の中でカヤに会えずに帰ることが多くなった。この事実は、人魚たちがいよいよ訓練に精を出していること……即ち、ワルシャワの危機が近づいていることを、モニカにひしひしと感じさせた。

 そして実際、ついに、ポーランドとの間の不可侵条約をドイツが破棄した。

 ポーランドじゅうが、ぴりぴりした雰囲気に包まれていた。ナチスの次なるターゲットは、まず間違いなくポーランドだ。不可侵じゃなくなったのだから、攻めてくるのはもはや確定事項だ。第一次世界大戦後にようやく勝ち取った独立が、また奪われようとしている。

 それに、もしナチスがポーランドにやってきたら、ポーランドでのユダヤ人差別はいよいよ苛烈になるだろう。

 「ドイツ人の生存圏拡大」を目指して領土を拡張しているドイツが──領内からユダヤ人を排斥しようとしているドイツが、ユダヤ人が特に沢山いるポーランドを領土に組み入れようとしている。この矛盾を解消するためには、ポーランドに住むユダヤ人を根絶やしにするしかない。ヨーロッパを丸ごと巻き込む、異常な攻勢。止まれなくなった汽車のような。

 そんな中、モニカは十二歳になった。ドム・シェロトの卒業も再来年に控えている。最年長クラスとして、下の仲間たちの面倒を見る毎日だ。

 尤も、サラのようにてきぱき仕事をしたり、シモンのようにみんなを笑わせることは、モニカは苦手だった。それに、昔と比べて、無邪気に笑うことも減った。

「笑わないとやってらんないだろ? ただでさえこんな時代なのにさ」

 シモンはある日、冗談混じりに言った。

「だからこそみんな、貧乏でも映画とかに行くんじゃないか。俺たちだって楽しく過ごさなきゃな」

「そ……そうだね」

 モニカは少し悩んだ。何故自分だけこんなに塞いだ気分になってしまうんだろう。みんなは逞しく笑って生きているのに……。

 そんなモニカも、無事に今の学年を修了して夏休みを迎え、いつものように「小さなバラ」に遠足に行くと、幾らか生気を取り戻した。

 存分に遊んでワルシャワに帰ってきてからも、ドム・シェロトの百人の子どもたちは、元気いっぱいだった。

 夏の間、真っ白い四角い建物には、子どもたちの笑い声が満ちていた。

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