第3話 野に遊ぶ

 ある春の日、先生はドム・シェロトの子どもたちを連れて、少し遠くの野原へ行った。

 辺りにはライラックやジャスミンなどさまざまな花が咲いていた。さらさらと流れる小川が陽の光を反射して煌めいていた。

 子どもたちはよく走り、よく笑い、よく歌った。

 モニカは、自分の作り出すよりも遥かに美しく爽やかなこの光景を、驚きと共に見つめていた。そこには全てがあった。萌える緑、草花の匂い、そよ風の感触、涼やかな川音。

 モニカは心を打たれると共に、ちょっぴり己を恥じた。自分は歌を使えば、この世のどんなものよりも美しい世界を表現できる、と今まで自負していた。ところがどうだ。現実の世界はこんなにも、眩しくて鮮烈だ。

 実際のところモニカたちは、ごくありふれたポーランドの小さな草原に、ちょっと散歩に出たに過ぎなかった。しかしモニカは、身近にあるものがこんなにも綺麗であるという事実に、すっかり感動していた。

 やがて孤児たちは、古い建物が並ぶ街中へと帰ってきた。その風景をも、モニカは驚きと尊敬を込めて眺めた。中世の街並みがそのまま残った歴史ある地、ポーランドの首都ワルシャワ。人が作り上げてきたものもまた美しいのだと、モニカは学んだ。

 この日の景色と感情を、モニカはずっと忘れなかった。眠って見る夢にまで出てくるようになった。

 この時初めてモニカは、「自分にだけ夢を見せてみよう」と思いついた。これまで、魔法の夢は仲間の子どもたちに見せることだけを目的にしてきたから、自分のためだけに力を使うことはしていなかった。でも例えば、自分だけ夢を見ることができれば、みんなにもっと素敵なものを見せるための練習なんかをするのに、便利かもしれない。

 モニカは特訓を始めた。

 色々な方法を試した。野原の光景を詩にしてみたり、イメージを旋律だけで表現してみたり、魔法を出したり引っ込めたりした。

 やがて、まるで忘れていたことを思い出すようにして、モニカはその方法を習得していった。

 ある日、例によってモニカは、一人で座ってハミングをしていた。たまたま通りかかった子どもがそれを聞いた。魔法が見えたので黙ってモニカのそばに座り込んで、夢の世界を楽しんだ。

 さて、子どもは、歌声が全く途切れないので、変だなと思い始めた。ハミングの間にモニカは全く息継ぎをしないのである。延々と音を伸ばし続けて、一分が経過した。子どもは目を丸くしてモニカを眺めた。モニカは瞑目して歌に集中しているように見えた。

 ふと、子どもが見ていた夢が消えた。花壇に咲いて見えた春の花はもう無く、緑の草が生い茂っているだけになった。

 それでもモニカはハミングを続けた。まだ息継ぎをしていない。子どもは怖くなった。普段ならモニカが歌うのを邪魔などしたことがないが、今回ばかりは心配だった。

「モニカ!」

 子どもは声をかけた。何度か名を呼んで、それから肩を揺さぶった。それでもモニカはハミングをやめない。

 その時モニカは深く深く意識の底に潜って、無我の境地とも言える場所にいた。

 そこは、広くたゆたう川のほとりだった。辺りは霧のようなものに包まれてよく見渡せなかった。が、これはヴィスワ川だ、とモニカは直感的に察した。ワルシャワの町を流れゆく、広くて長い河川である。

 モニカは、丸いすべすべの石が敷き詰められた地面を裸足で踏みしめ、川に向かって歩いて行った。

 霧の向こう、水際の岩に、大人の女性が座っているのが見えた。

 彼女の背中には、水に濡れた長い金髪が垂れていた。どうしてか、剣と盾のようなものが両脇に置いてある。

 そっと近づいていくにつれ、彼女の姿はよりはっきりと見えるようになってきた。あることに気づいたモニカは、小さく息を呑んだ。

 彼女の下半身は魚だった。

 モニカの目の前にいるのは、人魚だった。

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