第8話 息が続く

 ある日、モニカのもう一つの特技が発覚した。

 お風呂に入っている間、子どもたちはふざけて、潜水競争をすることにした。長くお湯に潜っていられた方が勝ちというゲームだ。

 ところが、いつまで経ってもモニカが浮かび上がってこない。全員がぜえはあ言って顔を上げてからもう何分も経っているはずなのに、モニカだけがずっと沈んだままだ。まさか溺れたのだろうか。子どもたちは騒然とした。騒ぎを感じ取ったモニカは、不思議そうな顔で顔を出したので、一同は心底ほっとした。モニカは戸惑っていた。

「あの……私の、勝ち?」

「そのようね」

 年上の女の子が言った。

「一度、先生に診てもらったら? こんなに長く息が続くなんて、おかしいわよ」

「でも、息が続くのは、病気じゃないと思う……」

 モニカは小さく言った。

「こんなの、大したことないよ。それに先生はいつも忙しいし」

 そもそも、他人より長く潜水できることの原因について、モニカにはちゃんと思い当たる節があった。だから次の土曜日、モニカは一人になるタイミングを見計らって、人魚の世界に行った。カヤの姿を探し回り、駆け寄って真っ先に報告した。

「カヤ、私は息がとっても長く続くんです」

「そう。……そうなのね」

 カヤは丸い形の盾を布で磨いていたが、手を止めてこちらを見た。

「私たち人魚は一時間くらい水に潜っていられるわ。ずっと潜ったままではいずれ溺れてしまうけれど」

「ふうん」

 カヤは盾を置いて、モニカを手招きした。

「もう一つ教えてあげる。人魚はね、不老長寿なの」

「えっ?」

「何百年も生きるのよ。私のお父様は八百年生きたわ」

 モニカはびっくりして何も言わなくなった。カヤは構わずに続ける。

「モニカ、あなたは病気や怪我をしたことがある?」

 モニカは首を振った。風邪は引いたことがないし、転んで膝を擦り剥いてもすぐに皮膚が再生するので、何の問題もないと思っていた。

「それはあなたが人魚の血を引いているからよ」

「じゃ、じゃあ、何でカヤのお父さんは死んじゃったんですか」

「人魚は『歌えなくなったら死ぬ』の」

「! ……ああ……」

 何となくそれはモニカも感じていたことだった。自分がアンデルセンの人魚姫のように声を奪われたら、死んでしまうだろうなということは、本能的に知っていた。

「私のお父様は、声が枯れるまで歌って、亡くなった。立派だったわ。たった十四年前のことよ……。ロシアの赤軍がワルシャワに攻めてきた時のこと」

 その歴史的事件については、学校ではまだ習っていなかったけれど、サラが熱心に話してくれたのでモニカもぼんやりと知っていた。

「私たちはワルシャワの人々を勇気づけるために魔法の歌を歌った。ロシア兵を人魚界に無理矢理引き摺り込んで殺したりもしたわ」

 カヤは盾と剣をそっと撫でた。

「お父様は誰よりも戦い、誰よりも歌った。そして声が尽きて亡くなった……。でも結果的に、ピウスツキが率いる騎兵隊は、ロシア兵を追い返すことができたの」

 この戦果は「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれる。まさかそれに、人魚の協力があったとは……。

 因みにピウスツキとはこの国で一番えらい、国民的英雄の名前だ。ついこの前に亡くなった。

 コルチャック先生はその人の訃報を聞いて、ひどくがっかりしていたっけ。自分で創刊した子ども新聞にも、追悼文を載せていた。

「ワルシャワの人魚はね、古くからワルシャワを守り、ワルシャワのために戦うことを使命としているの」

 カヤは教えてくれた。

「長い間ポーランドは他国の支配下にあったから、私たちはとても苦労した……。でもようやく自由を勝ち得たんだもの、これからはずっとワルシャワを守ってみせる。この歌声で」

「あ、あの、カヤ」

 モニカはさっきから気になっていたことを尋ねた。

「戦争で役に立ったってことは……人魚の魔法の歌って、大人の人にも効くんですか?」

 カヤはゆっくりと瞬きをした。

「全ての人間に効くけれど」

 やっぱり、とモニカは思った。

「私の魔法を、先生は見えないって言うんです」

「あら……。ちょっと、歌ってみなさい。聞いてみるから」

 モニカはちょっぴり変な気持ちがした。人間界のモニカは今も歌っているはずだ。そして人魚界のモニカも歌ったら──世界では二人のモニカが歌うことになる。

「どうしたの?」

「ううん、何でもないです」

 まあ、別に何だっていいか。モニカはシューベルトのメロディに乗せて歌った。


 童は見たり 野なかの薔薇

 清らに咲ける その色愛でつ

 飽かずながむ

 紅におう 野なかの薔薇


 聴き終えたカヤは一つ頷いた。

「確かにこの魔法は不完全ね。察するに、あなたの歌は子どもにしか効かないのよね?」

「はい」

「そうね、あなたは半分人間だし……恐らく克服することは不可能ね……」

 カヤが考え込みつつ言ったので、モニカはしょげ返った。

「私、魔法を先生にも見せたかったのに」

 カヤは表情を緩めた。

「あなたの先生はとてもいい人ね」

「そうなんです」

「大丈夫。あなたの歌は素晴らしい。他の人魚にも負けない唯一無二の歌声よ、モニカ。私は気に入った。きっとすごい可能性を秘めているわ」

 モニカは目をぱちくりさせた。

「本当ですか?」

「ええ。あのね、よく聞いて。魔法の力のない歌が一番美しいものだと、私は思うの。だって、その歌そのものの美しさをそのまんま表せるんだもの。人魚の歌には必ず魔法が混じるけれど、人間の歌は純粋に歌として美しい。人間との混血のあなたは、『本物の歌』を歌えるただ一人の人魚」

 カヤは遠くを眺めてうっとりした眼をしていた。何となく、何故カヤが人間の男の人に魅かれたのか、分かった気がした。

「私、一生懸命歌います」

 モニカは言った。

「本物の歌を歌えるように」

 カヤはにこにこして、モニカの頭をゆっくりと丁寧に撫でた。

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