第41話 収容所の噂

 それからしばらくして、独ソ戦の形勢がまた動き出した。ドイツはソ連にいよいよ負け始めていた。

 今年は例年に比べて冬が来るのが早く、ドイツ軍はロシアの冬将軍の猛威に晒されて確実に消耗していた。

 そしてソ連軍はこれまた十八番の焦土作戦に出た。あまり褒められた作戦ではないものの、ドイツ軍の動線にある町を自ら壊滅させることで、ドイツ軍は連絡と補給を絶たれ混乱した。

 ゲットーの人々は微かな希望を見出し始めていた。ソ連がドイツ軍不敗の伝説を破って、勝つかもしれない。そうしたら、ここまで助けにきてくれるやも。

 こんな歌まで流行った。


 太陽とヒトラーは何が違う

 太陽は西に沈み

 ヒトラーは東の地に沈む


 だが、期待は裏切られる。

 この頃から、強制収容所にてユダヤ人が大量に虐殺されている、という情報が次々とゲットーに入ってくるようになった。

 主な情報源は、収容所より命からがら逃げ帰り、そのまま行方をくらますことなく危険を冒してわざわざワルシャワに戻ってきた、ほんの僅かな人たちだった。彼らはゲットー内に戻るか、ポーランド人レジスタンスに匿われるかして、ワルシャワのユダヤ人に貴重な情報をもたらしていた。

 収容所にて「ゾンダーコマンド(労務部隊)」と呼ばれていた者がいる。彼らは惨いことに、ユダヤ人を殺す手伝いをさせられていたらしい。

 健康で運の良い者だけが、ゾンダーコマンドに選ばれる。彼らは命が助かる代わりに、何十、何百もの同胞を殺害させられるのだ。

 それを聞いた時は、銃殺だと思った──ソ連でアインザッツグルッペンがやったような。でもここ最近は違う方法が取られているという。

 狭い部屋に閉じ込めて、ガスを吸わせるのだ。

 これが、いちどきに大量に殺せる効率的な方法なのだという。銃弾も消費しなくて済むので尚良い。

 人殺しに効率を求めるなんて常軌を逸しているとしか思えない。まるで工場での作業のように、ナチスは死体を量産する。強制収容所に加えて、「絶滅収容所」というものまでできている始末。つまりそこに入った者はただただ殺されるだけなのだ。

 最も大規模で恐ろしいと話題になっているのは、「アウシュヴィッツ」だった。オシフィエンチムのことをドイツ人はそう呼ぶ。そこでは各地から集められたユダヤ人を中心に、ジプシー、ポーランド人政治犯などが劣悪な環境下で強制労働に従事し、沢山の人が恐ろしい早さで亡くなっていると聞く。アウシュヴィッツではまだガス殺は行われていないが、「ガス室」らしきものの建設は既に始まっているというから、あとは本当にもう時間の問題だった。

 せっかくドイツ軍の敗色が濃くなってきたのに、どうして虐殺がどんどん惨たらしいものになっていくのか。

「何でもかんでも私が知っていると思わないでくれる」

 サラは疲れた様子で淡々と言った。

「ただ、奴らは思ったより遥かに、ユダヤ人絶滅計画にご執心みたい。戦争に負けたとしてもそれだけはやり遂げようってことかしらね。意味不明だわ」

 モニカはちょっと考えて、あることを思い出した。

「『ドイツ人の生存圏拡大』」

「え? ああ、それがナチ党のスローガンだったわね」

「この理屈なら、彼らの行動が説明できるかも……。ヒトラーが戦争をして領地を広げるのは、ドイツ人の住む場所を増やすためだよね? ユダヤ人をたくさん殺すのも、ユダヤ人が死んだらその分ドイツ人の居場所が確保できるから……とか」

「あー……その可能性はありそうね。負けて領地が減っても、ユダヤ人がいなくなればそれだけドイツ人が生きやすくなるとか思ってそう」

「うん」

「私もう寝るわ……疲れた」

 眼鏡を置くと、サラはことんと眠りに落ちた。モニカも横になって、しばらく薄汚れた天井を眺めていたが、蓄積した疲れによりすぐに寝入ってしまった。

 収容所にまつわる不吉な噂によって、ゲットーの人々が戦々恐々としているのは、まず間違いないことだった。一方で、噂を信じたくない、とか、自分はきっと助かる、とか、希望的観測に縋っている人も少なくなかった。

 そうでもしないと、恐怖のあまり気が狂うからだ。

 ゲットーに入れられた時は、この悲劇はいつか終わるのだと、どこかで漠然と思っていた。ユダヤ人が救われる日は必ず来ると。

 それなのに、問答無用でガス室行き?

 そんなこと、あるわけない。できるはずがない。こんな非人道的なジェノサイドが、ショア(滅亡)が、人類に許されるわけがない。よりにもよって自分が、そんなひどい死に方をするなんて信じない。自分に限ってそんなことはない。

 そう、まだ希望は潰えてはいない。ナチスの連中の計画よりも早く、ソ連や諸外国がこの現状に気付いて、救いの手を差し伸べてくれるはず。自分は大丈夫だ。だから今日も一日のパンのために働こう。真面目に堅実に生きていれば、きっと大丈夫。働いていれば、やがて自由になれる。

 ……そういう楽観的な雰囲気は否定できない。最後まで希望を持つことは、生きるのに絶対に必要なことだった。希望を捨てた者から死ぬ。これは間違いないことだ。悲観して全てを投げ出すことは、死を選ぶことと同義だから。

 モニカも信じていた。仲間たちが死ぬはずはない、こんな小さな子どもたちが殺されるはずはない、と。

 耐えてさえいれば助かる。そう思えばこそ、歯を食いしばれる。

 でも……、「人狩り」は止まない。チフスなどの病気はいよいよ猛威を奮う。飢餓と寒さは容赦なく人の命を奪い去る。

 自分は助かるかもしれない、仲間は助かるかもしれない、だけど、大量の犠牲はもはや阻止できない。ホロコースト(大虐殺)は、止められない。

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