第42話 ゲットー警察
敵は、内部にもいる。
危険は常にすぐそばに潜んでいる。
工場での労務のあと、パンと硬貨を握りしめ、くたくたになってシリスカ通りに戻ってきたモニカとサラは、恐ろしい光景を目にした。
ゲットーの中で人々を取り締まる権限を持つユダヤ人、「ゲットー警察」の連中が、寄ってたかって一人の子どもに暴行を加えていた。棒で殴られている少年、──よく見るとそれは、シモンだった。
「あ……!」
「ウソでしょ⁉︎」
シモンの横には、見知らぬ小さな男の子が、蹲って凍りついている。……どうやらシモンはこの子を庇って、代わりに殴られているようだ。
止めに入ろうとしたのであろうステファ先生は、他のゲットー警察の人に手首を拘束されて動けないでいる。コルチャック先生は留守だ。いつものように寄付金を募りに行っている。
人々は身を竦ませてこの光景を見ているしかない。権力の強いゲットー警察に逆らったら、何をされるか分かったものではない。特に昨今は、あの恐ろしい噂もある。
……どうしよう。モニカの頭をさまざまな思いがよぎった。
殴られる痛み。怪我。人魚の血。仕返しをしてはいけない。そしてシモンがドム・シェロトに来たばかりの頃の記憶。
──殴られっ放しなんかごめんだね。こっちだってやれるんだってことを見せて、こらしめてやらなくちゃ、気が済まないよ!
でも、シモンは今、一方的に……。
モニカは拳をぎゅっと握った。それから、サラの制止を振り切って、ゲットー警察のもとへ突進した。小柄な体で警察の腕を掻い潜り、シモンの前に立ちはだかる。
「殴らないで!」
腕をいっぱいに伸ばして、ギュッと相手を睨みつける。
「あぁ?」
「殴るなら私を殴って」
「モニカ……何やってんだ。やめろ……下がってろ。やめてくれ」
シモンが言葉を絞り出した。その声は恐怖で震えていた。ゲットー警察が怖いのではない。モニカが殴られることが、シモンは何より怖いのだ。
「やめない。シモンは逃げて」
「馬鹿言うな……」
「モニカ、やめなさい!」
「ステファ先生も引っ込んでて!」
叫ぶと同時に、モニカは棍棒で頬を殴られた。想像以上の衝撃だった。続いて腹に蹴りが入った。モニカの体は吹っ飛んで、壁に額をぶつけた。強烈な痛みだった。どろっと血が流れ出て頬を伝う。
周囲の緊張は更に高まった。
モニカはとっても痛かったけれど、我慢して起き上がった。脚を叱咤し、壁にもたれかかって立った。そして精一杯に背筋を伸ばして、ゲットー警察の人を見つめた。
モニカの顔を見た人々が、不穏なざわめきを上げる。
モニカの頬の腫れがすーっと引いていく。額の傷口はぴたりと閉じて、流れた血の残滓がぽたっと地面に落ちた。みるみるうちに、モニカの傷は、すっかり完治していた。
「私たちは同じ境遇の人間同士なんだから、惨いことをしないで」
モニカは淡々と言った。
「次から、子どもを殴る時は私を呼んで。いくらでも相手になるから」
ゲットー警察の男たちは、うろたえて、目を泳がせた。彼らは、たった今見た摩訶不思議な現象と、目の前の小さな少女の謎の威圧感に、たじたじとなっていた。
「分かりましたか、おまわりさん?」
彼らはまだぐずぐずしていたが、やがて、悪態を吐き捨てて、退散していった。
彼らの背中が遠くなるまで、モニカは彼らを睨み続けていた。
「モニカ……! 大丈夫か……!」
シモンが、よろよろと這いずるようにしてやって来た。うん、と言おうとしたが、モニカはそのまま倒れ込みそうになり、ステファ先生に無事に受け止められた。これだけこ傷を治すには、結構体力を使うようだ。
「怪我……治るなんて、おれ……びっくりした」
「そっか。ごめんね」
モニカは目眩と疲労感と戦いながらも何とか立ち上がって、言った。
「これも、魔法みたいなもの、かな」
「おまえ、全然怪我しねえし……いっつも大人しいからさ。知らなかったよ……いてて」
「無理して喋らないで。怪我が酷くなる」
シモンの細い肩に触れようとしたモニカは、ぞっとした。
シモンの首筋を血が伝っている。
いつか……そう、確かずっと前、音楽会の後シモンと話した時に感じた胸騒ぎが、何故か思い起こされた。
「ねえシモン、もしかして後頭部ぶたれた?」
「うぇ……そーかもしれねー」
「呂律が回ってないよ! どうしよう、ステファ先生」
「落ち着きなさい、モニカ」
ステファ先生は冷静だった。
「シモンは絶対に動いちゃ駄目。サラ、看護師のスタッフを呼んできて」
「はいっ」
「他の子たちは家へ。……こら、モニカもここで座っていなさい」
ばたばたと、みんなが動き始める。
看護師が三名やってきて、シモンとモニカを慎重に搬送した。二人は先生の部屋の空きベッドに寝かせられた。
そうっと隣のベッドを窺うと、シモンは意識を失っていた。モニカは心臓がばくばくいうのを感じた。頭を打って気絶するなんて、絶対によくない兆候だ。
外出禁止令の時間の直前になって、コルチャック先生が帰ってきた。看護師が事情を説明する。先生はまずシモンのことを、長い時間をかけて診察した。それからモニカのもとにやってきた。
「どこか痛いところはないかい」
心配そうな声音だった。
「私、治りました。どこも悪くないんです」
「……ちょっと診せなさい」
モニカは大人しく診察を受け、本当にどこにも怪我がないことを証明してみせた。
「だが、君も頭を打っている。しばらくはここにいなさい」
「でも、明日からはまた働きに行かないと」
「働いていいかどうかは、私が判断するよ。パンのことなら心配いらない。君の分くらい、どうとでもなる」
そんなはずはなかった。今日だってコルチャック先生は、老体に鞭打って、こんな遅くまで出歩いていたのだから。
でも反論する体力がなかった。先生のそばにいるという安心感からか、モニカは話の途中で寝入ってしまった。
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