第43話 手向けの歌を
目が覚めると出勤時刻を過ぎていた。寝坊はしたものの頭はすっきりしていた。
隣のベッドを見ると、シモンがぼーっと天井を眺めていた。モニカの視線に気づくと、シモンは顔の向きを変えずに言った。
「結構ましな死に方だと思うんだ、俺」
モニカはぽかんと口を開けた。シモンにそんなことを言われる覚悟は、全くできていなかった。誰が死のうと、自分の仲間たちは大丈夫だと、何故か信じ込んでいた。
「……先生は何て?」
「慰めの言葉とか……あと、何が欲しいかって」
「……」
コルチャック先生は、たとえ相手が子どもであっても一人前の人間として接してくれるから、決して適当な誤魔化しは言わない。治るなら治る、治らないなら治らないで、きちんと分かるように説明をする。そしてシモンは己が治らないことを知った。
「もって今日までらしい。先生は今日は出かけないってさ。こんなことで寄付金集めを休むなんて、これじゃ俺、下の子たちに何て言えばいいか分かんねえや」
「薬は? 先生はいつも必要な分だけ、『外』から密輸してくるじゃない」
「頭の怪我は薬でどうにかなるもんじゃねえだろ」
「でも……」
「俺、先生に、少し具が入ったスープが食いたいって言っといた。あと、モニカは今日はここにいるのかって」
「……」
「なあ、ゲットーの中の他の子どもなんかは、飢えたり凍えたりして道端で死んでるんだぜ。それに比べたら、俺はスープを飲めるし、ベッドだってあるし、好きな先生と好きな女の子がいるし……幸せじゃねえか」
「嘘言わないで」
「……あの、いや、本気なんだけど……」
「私の知ってるシモンはもっと欲張りだった。かっこつけて強がりなんて言わなかった」
モニカはよいしょとベッドから降りて、ずかずかとシモンのところへ歩いて行った。
「今、幸せじゃないでしょう。死にたくなんかないでしょう。本当は恐いんでしょう。分かってるんだから」
「べっ、別に恐くなんか」
モニカが顔を寄せて口を塞いでしまったので、シモンはこれ以上の嘘を言えなくなった。
「スープなんかよりもっと贅沢なこと言っていいよ。私が歌の魔法で何でも叶えてあげる。ポンチキを山ほど食べたい? 『小さなバラ』へ行きたい?」
「……いや、俺、今ので充分贅沢できたかも……」
「いいから。本当のことを言ってよ。私はシモンのためになりたいの」
「そうか。……ありがと。じゃあ、ちょっと手を握ってもらえるか」
「いいよ、はい」
「あのな。……これから先、もしドム・シェロトの奴らが苦しむようなことがあったら、歌って、楽しい夢とか見せて、苦しいのやか恐いのを忘れさせてやって欲しいんだ」
「うん」
「でも、俺には最後まで魔法をかけないで欲しい。……恐いのは本当だよ。でも、モニカと先生がそばにいるから、恐くないんだよ。俺は夢を見なくても幸せだから、このままが良いんだ」
「分かった」
そこへ、コルチャック先生が入ってきた。持っているトレーには三人分のスープが乗っている。うち二皿には、ひき肉が入っていた。
先生はシモンをそうっと助け起こした。それからみんなでスープを飲んだ。
「うまい」と、シモンは言った。
再び寝かされたシモンは、満足そうににこにこしていた。それからモニカに、「魔法のない歌を歌ってくれよ」とせがんだ。
「いいよ」
モニカは言った。
「本物の歌を歌ってあげる」
雪解け水の 春の川
堤に花が 咲き誇る
妖精たちが 舞い踊り
暖かな陽が 煌めいた
澄んだ流れの 碧い川
豊かに街を 賑わせる
人魚の群れが 舞い泳ぎ
愛の調べが 木霊した
終始モニカは魔法を使わなかったけれど、シモンが苦しんだ様子はちっともなかった。幸せそうな寝顔だった。
遺体は現ドム・シェロトの建物の近くに埋められ、その上に不格好な墓石が置かれた。その隣には先に旅立って行った孤児院の子どもやスタッフたちが眠っている。
ドム・シェロトの仲間たちは一列に並び、墓石の上に一つずつ小石を並べた。泣いている子はいなかった。ありふれた日常の延長線上で、仲間が一人「真っ暗闇」へと辿り着いたということを、静かに悲しむだけだった。
モニカはいつも以上に無口だったが、葬儀が終わってから、ぽつりとサラにこぼした。
「人間は脆すぎる」
「……そうね」
「頭を殴られただけで死んでしまうなんて」
「あなたは違うのね」
「ごめん」
「どうして謝るのよ、いつもいつも。あなただけでも無事で良かったに決まってるじゃない」
「……うん。……私、シモンを守りたかった」
「ええ」
「この力を、みんなのために使いたかった」
「モニカはよくやってるわ」
モニカは不意に、サラにしがみついた。
「ねえ、どうしよう。すごく怖くなってきちゃった」
「どうしたの」
「私、病気はしないし、怪我もしない」
「小さい頃から、そうだったわね。真実を見たのは昨日が初めてだったけれど」
「それから、何十分も水に潜っていられる。息が長く続くから」
「知ってるわ」
「息が、長く、続くの!」
「それが何か……あ」
サラは眼鏡の奥の目を丸くして、モニカを見つめ直した。それから首を振った。
「良かったじゃないの」
「嫌だ」
「私としては都合が良いわ。だから馬鹿な真似はやめてよね。仮に私たちがまとめてガス室に入れられたとしても、一緒に死のうとか考えたら許さないから。あなたは息をせず──」
「不吉なこと言わないでよ!」
モニカは叫んだ。サラは困ったように肩を竦めた。
「ごめん。でも大丈夫よ。そうなる前に戦争は終わるから。今にきっと連合軍が勝つ。ここは解放される」
モニカは言葉に詰まった。
「……そうだね、きっと」
やっとそれだけ言って、あとはまた黙り込んでしまった。
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