第15話 夢中
やはり、瞬く間に情勢は変わっていく。ポーランドではもう、ユダヤ人が職にありつくことも、安全に暮らすことも、ほぼ不可能になってしまった。それどころか、生きることさえ許されなくなってきていた。
合わせて八十人くらいのユダヤ人が殺されるような事件が起きて、その何倍ものユダヤ人が負傷した。ポーランド政府はこの大量殺人について、全体の利益のためにはやむなしと判断した。つまり政府にはもうユダヤ人の命を守るつもりさえ無いのだ。
ユダヤ人の店からものを買わない、というボイコット運動も盛り上がった。ユダヤ人の店での盗みも横行した。
ユダヤ人差別はもはや公然であり、当然であった。
それに伴って一部のユダヤ人は、パレスチナに移住するという決断をするようになった。古代における故国に帰ろうというこの動きはシオニズムと呼ばれる。ドム・シェロトの卒業生も、幾人かがパレスチナへのビザを手にして旅立った。
でも、ここワルシャワで生まれ育った、中学校も卒業していないような小さな孤児たちに、一体何ができるというのだろう?
居場所もなく、惨めな思いをして暮らし、ストレスの溜まったモニカは、自然と夢の世界に耽ることが多くなっていった。
カヤはいつもモニカを歓迎してくれた。ある日カヤは、他の人魚たちにモニカを紹介した。
「私の娘よ。十歳になるの」
誇らしげにモニカの肩を叩く。
おおーっ、と人魚たちがざわめいた。川には十数ばかりの人魚が集まっていた。髪の色も鱗の色もそれぞれで、みんながみんな若く見えた。
「げに小さきおなごよ」
「世にも稀な血の者」
「カヤの愛の賜物ぞ」
「どれ、ひとつ歌ってみい」
モニカは困って、カヤを見上げた。カヤは「本当の歌を歌って見せて」と耳打ちした。
そこでモニカは、即興の歌を披露した。
並ぶは家の赤い屋根
流るる川の銀の色
いにしえの町ワルシャワを
彩る二色の尊さよ
モニカが口を閉じると、川のみんなはシンと静まり返っていたので、失敗したかとモニカは心臓が縮んだ。が、人魚たちは、おおーっと更に大きなどよめきを上げた。怒涛のような拍手が湧き起こる。みな、目を輝かせていた。
「その子ならではの歌詞ねえ」
「天晴れじゃ。見上げたわらべじゃ」
「これぞ音楽の力というもの」
「珍しいものを聞いたのう」
カヤは自慢げに胸を張っている。
モニカがスカートの裾をつまんでお辞儀をして見せたので、人魚たちはまた、わあっと拍手した。
ちょっと不思議だけれど、面白い人たちだ、とモニカは思った。好奇心旺盛で、思ったより人間に寛容で、それに優しい。
居心地がいいな。ずっとここに居たいな。人魚の人たちと仲良くして生きていけたら、誰にもいじめられないし、カヤに守ってもらえるし。
ドム・シェロトの子どもたちは、モニカが一人で歌うばかりで、あまり遊んでくれなくなったので、少しだけ不満だった。でもここには百人以上の子どもたちがいるから、じきに、モニカがブツブツ歌っている時は誰も話しかけなくなった。
サラはというと、親友があまりにつれないので、大いに不満だった。このところ、モニカは話しかけても歌うのに夢中で、ちっともサラに気がついてくれないのだ。
ある時、十回もモニカの名を呼んだサラは、ついにモニカの頭をバチンとひっぱたいた。
「……あッ?」
「あッ、じゃないわよ何回呼んだと思ってるのよ、このノンビリさん! お馬鹿! 歌の世界に浸っちゃって、まるでこっちのことなんかどうでもいいみたい! モニカの時間を邪魔しちゃいけないと思ってこれまでそっとしておいたけど、そろそろいい加減にして欲しいわ! 確かに近頃は嫌なことが起きているけれど、生きることから逃げちゃ駄目よ!」
サラはフーッと鼻息を荒くしていた。
「……ごめん」
モニカは呟いた。
「私を訴える?」
サラが挑戦的に言うと、モニカは力無く首を振った。
「じゃあ、もうじきごはんの時間だから、さっさと食堂に行っちゃいましょ。今日は話したいことがあるのよ」
毎日話したいことがいっぱいのサラは、モニカをぐいぐい引っ張って行った。ありがたいことだなぁとモニカは思った。こんな私でも見捨てないで接してくれる人がいる……。
人間の世界にも、暖かい場所はあるものだ。捨てたものではない。そうモニカは改めて知った。
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