第16話 ポグロム

「チェコスロヴァキアのズデーテン地方がドイツに併合された」

 カヤは川の水を見つめて、濃紺の尾鰭を苛立たしげにバッタンバッタン岩に叩きつけていた。

「ミュンヘンでそう決まった」

「そうみたいだね」

 モニカは後ろに立って言った。

「他国は何をやっているの。三月にはオーストリアも併合されてるというのに」

「うん」

「次はどこ? ポーランドは……ワルシャワはいつ?」

 体は痛く無いのだろうかとモニカはカヤの様子を見ていた。あんなに力強く岩を引っぱたき続けたら、怪我をしてしまう。

 しかしカヤは、唐突にピタリと動きを止めた。

「軍隊がこの街にやってくる」

 噛み締めるようにゆっくりと言う。

「それは……『かもしれない』でしょ?」

 モニカは恐る恐る言った。カヤは聞こえていないかのようにぶつぶつ続ける。

「ポーランドは……ああ、なんてこと。ポーランドがまたいなくなる!」

「カヤ?」

「私たちのワルシャワを、誰が守るの? 私はまだ死ねない……」

 それはまるで確定した未来について述べているような様子だった。予言か何かのようだ。もしやこれも、人魚の能力だろうか。

 ぐるりと、カヤは振り返った。鬼気迫る表情だった。

「『水晶の夜』よ」

「えっ?」

「『水晶の夜』。そこから一気に崩れ去る。割られた窓ガラスのように」

「カ、カヤ?」

「モニカ。自分の身を守ってね。私からのお願いよ」

「わ、分かった」

 頷いたところで夢から覚めた。びっくりしてしまって、歌うのをやめていたのだ。

 モニカ、十一歳の秋。

「ドイツに住んでるポーランド系ユダヤ人が、国境まで追放されたわ。かなりの数がポーランドに流れ込んだみたい」

 サラは新聞紙をめくりながら言った。

「良かったね。ポーランドも住みづらいけど、ドイツにいるよりは幾らかましだよ」

 モニカが意見を述べると、サラは憂いを帯びた表情になった。

「ポーランド系とはいえ、ドイツで生まれた人だって多いでしょうね。慣れ親しんだ家を理不尽に追い出されたんだから、良かったと断言はできないわ。それにポーランド政府はもう国境を封鎖するんですって」

「えっと……じゃあ、その人たちはどうなるの?」

「ドイツ側の国境付近に足止めでしょうね。しかも身分証や資産は全て剥奪されてるって! 一体どうやって生きろというのかしら」

 眉間に皺を寄せていたサラだったが、二週間後、もっとずっと怒った様子でモニカの前に新聞を叩きつけた。

「奴ら、ついにやりやがったわ!」

「な、何?」

 一面には目立つ大文字で「ドイツでユダヤ人が襲撃される」。

「世界中で大ニュースよ! こんな酷いことするなんて!」

「襲撃なんて前からあったよね……? いっぱい殺されてるもの」

「今度のはポグロム(ユダヤ人の集団的・計画的虐殺)よ! 多分……いえ間違いなく」

「ポ、ポグロム」

「しかも、見なさいよこの規模を! 夜中のうちに、各地で数百のシナゴーグが破壊もしくは放火され……」

「えっ、数百?」

「数千のユダヤ人商店が破壊され……」

「えっ、数千?」

「百人あまりのユダヤ人が命を落とし、三万人のユダヤ人が逮捕された」

「そんなに!」

 モニカは目を見開いて紙面を凝視した。記事にはこんなことが書いてあった。


 ──商店街の割れたガラス片が道路上を覆ってて、月の光に輝いていたという。このことからドイツ帝国は事件を「クリスタルナハト(水晶の夜)」と呼称し、ドイツ民族による正当な蜂起であると説明している。しかしながら事件現場は凄惨を極めていたとの目撃証言も……


 頭がズキッと痛んだ。

「割れたガラス。水晶の夜」

 手のひらで頭を押さえながら、モニカは呟いた。

「ここから一気に崩れ去る。ねえサラ」

「何?」

「私たちも、自分の身を守らなくちゃいけない時が来る……」

「そうね」

 返事をしたサラは、モニカの様子がおかしいことに気付いた。

「……モニカ? 身を守るって……何? あなた、何か変なこと考えてないでしょうね?」

「何それ。まさか」

 モニカは力無く笑った。

「私たちを襲うのがヒトラー・ユーゲント(ヒトラー青年隊)の連中だったら、私の力で追い返せるけど。でも、来るとしたら軍隊でしょ。みんな大人だよ」

 サラはじっとモニカを見つめてきた。

「怖がっちゃ駄目。希望を捨てるのはもっと駄目よ」

「うん?」

「私たちが襲われるなんて、そんな馬鹿な。いくら極悪非道のナチスと言ったって、ちっぽけな孤児まで酷い目に遭わせやしないわよ。先の大戦の後のジュネーヴでの議定書でも決まってるでしょう、子どもは真っ先に救われるべきだって」

 あからさまな綺麗事だった。サラがこんな根拠のないことを言うとは珍しい。しかし結局モニカたちにできるのは、その程度のことだけだ。希望を捨てずに生きることだけ。絶望したらそれこそ終わりだ。だからモニカは、これ以上は何も言わなかった。

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