第37話 ごろごろ

 毎日ドム・シェロトと工場を往復するうち、モニカはこのきつい日々にも慣れていった。それどころか、そこいらの死体にも慣れてしまった。今となっては、道端で餓死している骨と皮ばかりの死体を踏みつけて歩くのも平気だった。死はありふれた日常に過ぎず、何らかの感情を引き起こすものではなかった。

 急速に感覚が麻痺していっている。道端に死体がごろごろしていても、何も感じない。

 それでもモニカはまだ人間らしい感情を保っている方だった。人々は食べ物と病気のことにしか注意を払わなくなっているが、モニカは人魚界で川魚を食べているし、病気になる心配もなかったからだ。

 焼き魚を貪りながら、モニカは沈んだ様子で呟いた。

「私って本当にろくでなし」

「どうしてそんなことを言うの」

 カヤは悲しそうに言った。

「可哀想に、お腹が空いているのね。だからそんな気分になるのよ。せめてここでだけでも、たんと食べなさい」

 モニカは首を振った。

「最近は、私は助かる、ああ良かった、って思うんです。人が沢山死んでいるのに、それくらいのことしか考えられなくなってしまって。まるで他の人のことはどうでもいいみたいに。死者を悼むことができるのは、ドム・シェロトの人が亡くなった時くらいで……。私は何てひどいんだろうって、たまに考えちゃうんです」

「それを言えるのは、あなたが良い子だからよ、モニカ」

「そうでしょうか」

 モニカはシュンとしたまま、魚の骨をしゃぶった。

「疲れちゃった……。帰ります」

「そう……。明日も生き延びるのよ」

「はい」

 ふっとモニカは泡のように人魚界から姿を消した。

 日が落ちた人間界の窓の外では、外出禁止令が出ているにもかかわらず、子どもの物乞いの悲痛な声が絶えない。しかしモニカが労役の後にもらうパンはみんな、ドム・シェロトへのおみやげにやってしまっていた。モニカの手元には一欠片のパンしか残されていない。これは配給で手に入れたなけなしの食糧で、明日の朝のためにとってあるのだ。これがないと明日きっちりと働いてみせることができなくなる……。

 モニカは長いこと逡巡してから、窓からその最後の欠片を投げ落としてしまうことが、ままあった。こうすることで運良くその日のパンにありつく子もあれば、運悪くそのまま力尽きて朝になったら死んでいる子もある。

 コルチャック先生はまだ、お腹を空かせた孤児を引き取り続けていて、今やドム・シェロトの仲間たちは二百人ほどに達していた。

 みんな空腹や虱と戦いながら、荒んだ気持ちで過ごしていた。子どもたちはいらいらしやすくなり、反抗的になっていた。

 モニカは働きづめで、そんな彼らのために歌を歌ってやる余裕すら無かった。いつしかモニカは、自分のためにしか歌わなくなっていた。

 歌とは他人に聴かせてこそ意味のあるものだ。昨春のあの音楽会が懐かしい。あの頃の苦労はまだまだ序の口だったのだ。独ソ戦が始まってからというもの、比較的豊かだったドム・シェロトも、大幅に貧しくなってしまった。

 独ソ戦の経過は思わしくない。ドイツ軍はソ連にどんどん攻め入っている。ついに主要都市のレニングラードが包囲された。ゲットーの中には悲観的なムードが漂っていた。

 人々を更に絶望させたのは、ポーランド人諜報員や、強制収容所から脱出してきた人からの情報だ。何でも収容所では、食事も満足に与えられず、ひどい虐待を受け、強制労働をさせられるというのである。あまりの過酷さに、ゲットー以上の頻度でばたばたと人死にが出るそうだ。ここより凄まじい地獄があるだなんて考えたくもないが、残念ながら事実は事実だ。

「収容所に行くことは死ぬことと同じ」

 こんな共通認識が出来上がっていた。

 そんな噂話がピタッと止み、人々が生きた心地もしなくなる瞬間がしょっちゅうある。SSやドイツ兵が見回りにくる時、人狩りが来てたくさんの人をどこぞへと連れ去ってしまう時、彼らが無差別にユダヤ人を銃殺する時、等々。

 ドイツ兵たちが娯楽の一環としてゲットーの中へ見学に来る時もあった。彼らはユダヤ人が悲惨な目に遭っているのを見て楽しむのである。

 ごく稀にパンを恵んでくれる優しいドイツ人もいたが、大半はユダヤ人がぼろきれをまとって地面を這いずっているのを見世物のようにとらえて、冷たい笑いを浴びせ、優越感に浸る。

 モニカたちはそんなことで屈辱など感じはしない。酷い奴らだとも思わない。一切の心の動きは失われている。ただただ、何かの拍子にドイツ人観光客に目をつけられて、暴力をふるわれるのが怖かった。もっとも彼らの目的は単なる物見遊山に過ぎず、虱や病気が伝染るという理由で、ユダヤ人に大して近づいてはこないのだが。

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