第5章 死者の街

第36話 労働をすれば

 戦争は拡大し、ドイツ軍はソ連領に侵攻した。独ソ戦の勃発である。

 その前夜、ゲットー内をドイツ軍が粛然と通り過ぎていった。戦車の唸りが低く響いた。人々は慄然として息をひそめ、家に籠もった。彼らが一刻も早く過ぎ去るのを、ただひたすらに願っていた。

 それからというもの、ポーランド総督府内の経済状況は今まで以上に一気に悪化した。

 また、開戦するや否や、ソ連領でのポグロムが始まっていた。ドイツの「アインザッツグルッペン(行動隊)」という組織が、ユダヤ人を滅茶苦茶に射殺していっているらしい。ゲットー内の新聞にそう出ていた。おそらく、秘密裏にゲットーの外と通じている人が掴んだ情報だろう。

 明日は我が身と、ゲットー内の人々は怯えきっている。明日も何も、既にゲットーの中では、死者数や行方不明者数が増加の一途を辿っていたのだが。

 日に日に、埋葬が間に合わなくなってきた。通りには常に異臭が漂っている。二次被害として疫病と虱が猛威を振るう。

 さて、十四歳以降のユダヤ人は、漏れなく労働に駆り出される。これからモニカとサラは、軍需工場で縫製の仕事をすることになっていた。

 本来ならこの年でドム・シェロトを卒業するはずだったのだけれど、コルチャック先生は「これからもここに住んでいいからね」と言ってくれた。ありがたいことだ。

「正直、寝る場所を探さなくて済んで助かるわ。場所を取ってしまって、下の子たちには申し訳ないけど」

「そうだね。これで次の冬も凍死しなくて済むかな……」

「食べ物が足りていればね」

 小声でそんなことを話しながら、モニカとサラは、緊張の面持ちで工場へ向かって歩いていた。

 フウォドナ通りから遠ざかるほどに、辺りは地獄絵図と化していく。

 行き倒れた死体が、ちらほらと。こんなに酷かったっけ。改めてモニカは、自分が目を逸らしていたものの実態を思い知って、ショックを受けていた。ドム・シェロト周辺は、子どもたちにストレスを与えないために片付けが行われていただけで、他の地域ではそんな余裕はないのだ。

 そこの人も、あっちの人も、生きた証を残せない。誰かが土の上に石を置いて祈ってくれることもない。(ユダヤ教では、死者を悼むために墓石の上に小石を置く。)

 やがて二人は、薄汚れた縫製工場に辿り着いた。いよいよだ。

 裁縫は学校でもドム・シェロトでも一通り習ったのだが、工場勤務というとどんな形になるのか、怖いような気持ちがあって動悸がしてくる。きっとこき使われるんだろうなと思ってはいたが、現実は想像よりも過酷であった。

 掃除の行き届いていない工場で、機械的に淡々と縦に配置された女性たちが、ひたすら目の前の作業に集中している。作業工程は目まぐるしく、息つく暇もない。少しでもミスを犯すと全体の流れに影響してしまうので、誰もが必死だった。

 仕事内容は、東部の前線で戦死したドイツ軍の兵士の軍服を使い回して、新しい軍服を作ることだった。

 弾痕の空いたボロ布を受け取り、向きを揃えて、一部にミシンをかけて、サッと次に渡す。するともう次の布が来ている。

 新人でもモタモタしていると容赦なく叱責を食らい、時にはぶたれた。ここでは労働者たちは機械を稼働させる部品の一つに過ぎず、丸一日常に全力で回転していなければならなかった。

 これも、一日のパンのため。今日、自分が生き延びるため。

 そのようにして自分の手で作った軍服がやがてドイツ軍に支給され、ソ連にいるユダヤ人たちを蹂躙するのだと思うと、吐き気がする。いや、ドイツ軍の制服を見るだけで嫌な気持ちが湧き起こるし、本当なら触りたくもない。しかしそんなことを考えるような時間などあるはずがなかった。休憩無しに黙々と手先を動かす。

 初日は何度も目眩に襲われた。間違えたらどうしようという恐怖は膨らむばかりだった。立ち仕事なのでモニカは早い段階で足が震え始めたが、へたり込むわけにもいかない。いつまでも作業が終わらない気がした。そして終わった頃にはこれまでにないほどくたびれ果てていた。

 だが、背筋をしゃんと伸ばしていなければなるまい。労働力として使い物にならないと判断されたら、働かせてもらえなくなって死ぬか、射殺されて死ぬかだ。

 多少の賃金とパンを受け取って、モニカとサラはよろよろとフウォドナ通りへ戻った。今度は路傍の死体に目をくれる余裕は無かった。

 ドム・シェロトに帰り着いてもモニカは孤児院の食事には手をつけず、労働の対価のパンも孤児院に寄付してしまった。配給のパンだけで我慢する。一日分の量としては全く足りなかったけれど、今ではほとんどの人がこの量の食事で生きているのだ。このうえ下の子たちの取り分を減らすのは憚られた。

 コルチャック先生が守ろうとしているもの……小さな子どもの安穏を、モニカも守りたかった。

 大丈夫。少なくともモニカは、他人よりも食べ物に固執しなくて済む。労働さえしていれば、命が繋げる。運悪く人狩りに遭って、強制収容所へ連れて行かれない限りは。

 この日モニカは泥のように眠った。翌朝は起きるのがしんどくなること請け合いだったが、今だけでも、ぐっすり眠っておきたかった。

 死者の街の夜は、刻々と更けていく。

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