第35話 パンのための犠牲

「……痛いとこ突くわね」

 モニカの話を聞いたサラは、机に肘をついた。

「そりゃ、物乞いをしている子どもなんて飽きるほど見てるし、毎日おっそろしい数の葬式が上がってるのだって知ってるわよ。それすら追いつかなくて、生きてるのか死んでるのかも分からないような人たちが路上にいっぱい転がってるし。でもそれは、私たちのせいじゃないわ。後ろめたい気持ちになるのは分かるけど、私たちには何の責任もないことよ」

「えっと」

 モニカは言葉がつっかえてしまった。そのように断言されると、何だか突き放したように感じてしまう。

「……でも、サラ。私たちは、先生や先輩のおかげで、恵まれた生活をしている。その陰で、他の誰かがつらい思いをしている。それが申し訳ないの」

「恵まれてる、確かにね。私たちはそのことを真摯に受け止めて、感謝するべき、ってのは分かるわ。でもこの程度で恵まれてるだなんて、本当ならお笑い種なのよ」

 そう言いながらも、サラはちっとも笑っていなかった。

「この生活だって、私がドム・シェロトに来る前の何百倍も悪いわ。母さんと暮らしていた時ですら、昼食にはじゃがいもの皮じゃない部分も食べてたわよ」

「……そっか」

「人間にはね、もうちょっとマシな生活を送る権利ってものがあるの。それすら享受できていないのに、他人を憐れんでいる場合?」

「……」

「恵まれない人たちが死んでしまうのは、ナチスの連中と、それに乗っかってる腐った大人たちのせいでしょ。孤児の私たちが孤児院に養われている、それのどこが悪いのよ。申し訳なく思う必要なんてない。逆に、あなたに同情された人の気になってみなさいよ。何こいつムカつくって思われるのが関の山よ」

 そうだな、とシモンも頷いた。

「ゲットーの中でだってさ、お金持ちの人なんかは、きっと毎食ポンチキ(揚げたジャムパン)とか食ってるんだぜ! いいなあ。俺も食いたい」

「あなたはちょっと話からずれてるわね……。でもシモンの言い分の方がまだ分かるわ。もっとも、私が大きくなったら、余った稼ぎは孤児院に寄付するような人になりたいけどね」

「な、何だよ。俺だってもちろん寄付するさ。でもたまにはうまいもん食ったっていいだろ」

 ほらね、とサラはモニカに視線を向けた。

「まずは自分がしっかり生きて、立派な大人になればいいのよ。子どものうちからあれやこれやと、社会に気を遣うことなんてないわ。生きているだけで申し訳なく思うなんて駄目。間違っているのはモニカじゃなくて、こんな社会の方なんだからね」

「うん、よく分かんねえが、少なくともモニカは悪くない」

 二人の言うことはまさしく正論だった。ただ生まれてきただけの子どもたちに、生きているだけの子どもたちに、罪なんて一つも無い。まずは自分が胸を張って生きる。たとえ何かが犠牲になっても。

 ……あれ?

 何か引っかかるものを感じて、モニカは急に立ち上がった。

「ごめん、ちょっと、考え事してくる」

 サラとシモンは慣れた様子で「はいはい」と言った。こういう時のモニカは、いつも一人で寝室に引きこもって、静かに歌って過ごすと決まっている。

「つくづく、あなたって変わってるわね、モニカ」

 サラの言葉を聞き流して、モニカは階段を上がっていった。

 カヤのお父さんは、つまりモニカのお爺さんは、ワルシャワのために声が枯れるまで歌ったという。あの時のワルシャワの勝利は、数多の兵士たち、そして人魚たちの犠牲の上に成り立っていた。

 他人を犠牲にしてまで生きる人もいれば、自分を犠牲にしてまで戦う人もいる。この違いはどういうことだろう。兵士たちや人魚たちは何故、己を犠牲にするのだろう。

「どうしてなの、カヤ?」

「そうねえ、難しい問題ね」

 カヤはパチャリと尾鰭で水面を叩き、小さく水飛沫を上げた。

「それはそうと、音楽会は素晴らしかったわ。聴けてよかった」

「あ、ありがとう」

「これはそのお礼」

 カヤは高く美しく、優しい歌を歌った。歌声は辺りを取り巻く清流となって、あらゆる心配事や悲しいことを流し去ってしまった。モニカは幾分心が落ち着くのを感じた。

 魔法の余韻の中で、カヤがそっと囁く。

「人にも人魚にも、『守りたいもの』があるのよ」

「まもりたい、もの」

「お父様はワルシャワの街を守りたかった。私はあなたを守りたい。それこそ、何かを犠牲にしてでもね。……コルチャック先生もきっと同じよ」

「……」

「何も恥じることなんてないわ。大事な人に守られながら、自分も大事なものを守って生きる。人間はそうやって命を繋いできたのでしょう」

「はい」

「だったら、守られて生きることは、ごく自然な、当たり前のことなのよ」

「……分かった」

 ようやく何かが腑に落ちた。

 守り、守られ。そのために、時には犠牲を払って。そうやって生きていく。

 カヤのお父さんは、自分の命をかけられるほど、ワルシャワを大切に思っていた。コルチャック先生は、ゲットー内の格差に目をつぶってでも、モニカたちを守ってくれる。

 何という、深く大きな愛。モニカはその愛に報いるためにも、精一杯に自分の命を生きなければならないのだ。そしていつかモニカも立派に成長して、大切なものを守る。

 この醜い世界には、愛がいっぱいに溢れている。

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