第51話 約束のため

 七月も終わりが近づき、モニカの特訓は大詰めに入っていた。これまでになく魔力が高まり、研ぎ澄まされているのを感じる。

 寝室でモニカは、気張った表情をしていた。

「いくよ、サラ」

「どうぞ」


 大地が子らに、語ります。

 眠れ、眠れ、静かに眠れ。

 お空の月は、安らかな、

 子らの寝顔を照らします。


 モニカが口を閉じても、三十秒間くらい、サラは眠ったままだった。それから「ふわーあ」と伸びをして起き上がった。

「おはよう、サラ」

「むにゃ、おはよう、モニカ。よく眠れたし、いい夢を見たわ」

「良かった。久しぶりにやったから……」

 小さい頃、裁判で禁止されて以降、モニカは絶対に、他人を強制的に眠らせようとしなかった。だからこれが人生で二度目だ。

「なかなか、気持ちよく眠れたわよ」

「そっか」

 こんな実験、よほどの信頼関係がないとできない。下の子たちに催眠をかけるのは、練習なしのぶっつけ本番になるだろう。近々来る「本番」のことを思うと、総身が震える思いがする。

「……」

 サラは浮かない顔をしていた。

「何? 何かあった?」

 モニカは前に身を乗り出した。本番のために、間違いや不安事項は一つたりとも残したくなかった。

「あ、ううん、大したことじゃないの」

「何でも言って」

「うーん、ちょっと……ちょっとね。この夢を見たら、終わりの時なんだって思うと、……ちょっと怖いかも。夢そのものはとっても気分がいいんだけど、二度と目覚めないのが分かってしまうと、どうにも」

「なるほど」

 モニカは目を閉じて、うーんと考え込んだ。

 夢、夢か。モニカの見せる夢は必ず夢だと分かってしまう。それは、意識をコントロールしきれていないから……。

「うん、分かった」

「何が?」

「もう一回、歌ってみるね」

「……どうぞ」


 ねんねんころり、おころりよ。

 どの家の子も、夢の中。

 ヴィスワの川に、守られて、

 街はふうわり休みます。


 今度は一分近く、サラは起きなかった。モニカがじっと観察していると、急にパチッと目を開けた。

「あれ?」

「どうしたの、サラ?」

「私、寝てた?」

「うん」

「……驚いた。気づかなかったわ」

 モニカは頷いた。うまくいったらしい。

「あと一回。一回だけ、練習させて」

「何回だって付き合うわよ」

「ううん……危ないからやらない。あまり意識を操ったら、サラは正気じゃいられなくなるよ」

「そうなの?」

「眠らせ方は分かった……魔法をかける時の感触がとてもよく分かったよ、ありがとう。でも、同時にね、ここをこう押せば昏睡させられるな、とか、こういう風に加減を変えれば精神を壊せるな、とか……その辺も何となく分かっちゃって」

「……すごいのね、モニカって」

「怖くないの?」

「別に。あなたのことを怖いと思ったことなんかないわ」

「そっか」

 モニカは、感謝の念で胸がいっぱいになった。

「それに、みんなのために、あなたの手で正気を失うなら、それも悪くないって思うわ」

 モニカはぎょっとしてサラを見つめ直した。

「嫌だよ!」

 サラは肩を竦めた。

「冗談よ」

 いや、あの目は本気だったと、モニカは思った。

「変なこと言わないで。私たちは最後まで堂々とした態度でいなくちゃ。それがコルチャック先生の願いなんだから」

 だから先生はあの劇を企画して、子どもたちに死に対する姿勢を教えてくれたのだ。

「モニカ、あなたもね」

「はい?」

「だってあなた、何だか、私たちと一緒に死にそうなんだもの」

「……」

「ガス室が開いたら逃げなさいよ。あなたには人生の続きがあるんだから。自覚ある?」

 モニカは唇を引き結んで黙ってしまった。サラはモニカのもとへとにじり寄って、両手でモニカの肩を掴んだ。

「私、あなたみたいな素晴らしい親友を持てて、良かったわ。元々貧乏で、親も死んじゃって、私って何て不幸せなんだろうと思っていたけれど……今では結構、幸せな人生だったと思うの。あなたに会えたし。先生たちにも」

「……うん」

「モニカ、あなたは特別よ。もちろん、魔法が使えるからってだけじゃないからね。私と友達でいてくれてありがとう」

「……うん」

「だから私は、あなたに生きていて欲しいのよ」

 その通り、と明朗な声がした。二人がハッとして振り返ると、寝室の入り口にコルチャック先生が立っていた。

「先生……」

「モニカ、君はできる限りの力を使って、生き残りなさい。つらいだろうが、それが君の義務であり、私の希望だよ」

「でも、先生は?」

 モニカは思わず大声を上げた。

「先生は助かるのに、断ったじゃないですか!」

 先生の眼がやや意外そうに見開かれた。それから先生は優しく微笑んだ。

「まず救われるべきは、子どもたちなんだよ。我が子が行ってしまうというのに、見捨てて逃げる父親がどこにいる?」

「私だって、見捨てたくない」

「いいや、君は生き延びなくてはいけないよ。それに君は、魔法を使ってくれるんだろう。それで充分だよ」

 それからコルチャック先生は、サラの茶髪の頭を撫でた。

「よろしく頼むよ、サラ」

「もちろんです」

 モニカは胸が詰まって何も言えなくなっていた。

「さあ、モニカ、もう一回練習するんでしょう? さっさと歌いなさいよ。子どもたちが来てしまう前に」

「……分かった……」

「私も聞いていていいかな?」

「……どうぞ……」

 モニカは歌った。

 そして、本人に悟られないまま幸せな夢を見せる方法を、この一回きりで完全に会得した。

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