第50話 先生たちの決意
ゲットーの取り壊しが始まっていた。もう誰も生きてここにはいられないのだと、人々は悟らざるを得なかった。
モニカは歌の特訓の合間に、普段通りにドム・シェロトの運営に携わった。片付けをし、掃除をし、食事の支度をする──。
この日モニカが、ステファ先生から頼まれた衣類用の白い布の山を運んでいると、コルチャック先生の部屋から話し声が聞こえてきた。どうやら知り合いらしいおじさんが訪ねてきているようだ。こんな時に何の用だろう。
「君のために苦心して偽造証明書を作ってきたんだ。ご覧、これで問題ないよ。君は助かる。連れて行かれずに済む」
おじさんの声が言った。モニカは棒立ちになった。
「コルチャック、君は死んではいけない人だ。逃げられるチャンスは今しかない。これが最後の機会なんだよ。それに、ナシュ・ドムの方とも話をつけてある。あそこに君のための隠れ家を用意してあるんだよ。ね、心配はいらない。僕に任せてくれないか。君が死ぬことはない。助かるんだ、命が助かるんだよ。僕は、せめて君だけでも助けたいんだ」
おじさんは熱弁を振るっていた。
「君は」
コルチャック先生は言った。その声はあまりにも真っ直ぐで、聞いたこともないほど冷徹だったので、モニカは戦慄したほどだった。
「私に、子どもたちを見捨てるような、卑劣な真似をせよと言うのかい?」
「なっ……」
モニカは手が震えるのを感じて、抱えた布の山をぎゅっと握りしめた。
(先生、先生は……)
「ぼ、僕は別にそういうつもりじゃ……」
おじさんは明らかに狼狽えている。
「私は子どもたちの父親だ。子どもたちを差し置いて、どうして私だけが助かろうと思うだろうか」
「コルチャック、君は……君は」
「子どもたちだけでは行かせられない。当然だろう、ネヴェルリィ君」
モニカは、悲しいような、安心したような、筆舌に尽くしがたい複雑な思いで胸が一杯になった。
先生は死ななくて済むのに、死んでしまう道を選ぶのか。先生はこんなにもモニカたちのことを想ってくれているのか。先生だけでも逃げ延びてほしい、先生だけでも生きていてほしい、けれど先生に見捨てられるとしたら寂しいと思ってしまう自分もいて……モニカはぽろっと一粒、涙をこぼした。
運命の何と残酷なことか。
モニカには、コルチャック先生を助けることができない。コルチャック先生、ステファ先生、その他ドム・シェロトのスタッフたち、彼ら大人を救うことがモニカにはできない。モニカの魔法が大人に効かない、中途半端なものであるばかりに。
「……すまなかった、コルチャック。僕は君を侮辱してしまったようだ……」
おじさんがしゅんとした様子で言った。
「いいんだ、ネヴェルリィ君。私の方こそすまない。君の厚意はとてもありがたいし、嬉しいものだ。私とて、君の苦労の結晶を無碍にしたくはない。だが、私にはもっと大事なものがあるんだ」
「ああ、僕は運命を呪うよ。こんなことになるなんて……君のような立派な志を持つ人が……」
「もういいんだ。私の心は、ゲットーに入る前から決まっている。大丈夫だ。私はむしろ誇りに思っているんだよ」
モニカは堪らなくなって、その場を去った。
何でコルチャック先生みたいな人が、こんな時代に生まれてしまったのだろう。こんな境遇でなければ、もっとたくさんの孤児が幸せになって、先生だって幸せに暮らして──幸せな人生を送れたはずなのに。
どうして。
「布、持ってきました、ステファ先生」
モニカはステファ先生の前にボフッと白い布の山を置いた。
「……どうしたの、モニカ。何かあったの?」
ステファ先生は衣服を縫う手を止めて、モニカを見つめた。モニカはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「ステファ先生は、自分だけでも助かろうとは思わないんですか」
ステファ先生は、やや顔をしかめた。
「まあ、何を言い出すのかと思ったら。そんなわけないでしょう、可愛い子どもたちを置いていくことなんてできません。一人だけ助かろうなんて思いませんよ!」
モニカは胸が苦しくなった。
「私もみんなと一緒がいい……」
「珍しいのね、モニカがべそをかくなんて。こちらへいらっしゃい」
「はい……」
モニカはステファ先生の隣に腰を下ろした。先生はモニカの頭を優しく叩いてくれた。
「さあ、元気を出して。そうだ、お裁縫を手伝って頂戴な。何か作業をしていた方が、気が紛れるでしょう」
「はい……」
「モニカは縫製工場で働いていたものね、心強いわ。さあ、これの続きをよろしく。私はこっちを裁断しますからね」
「はい。……あの、ステファ先生」
「何かしら」
「どうして今更、よそゆきの服なんて……」
「晴れの日には、晴れ着を着るものよ」
ステファ先生は静かに言った。
「ここを出る時には、みんなには綺麗な格好をしていて欲しいの。最後まで立派に生きて欲しいのよ」
「……。じゃあ、着心地が良くなるように、気をつけて縫います」
「是非ともそうして。でも、間に合わなくっちゃ意味がありませんからね、できるだけ早くお願いね」
「分かりました」
モニカは針と糸を手に取った。一生懸命、仲間たちの死装束を縫った。縫いながらモニカは、息を吸わない練習をした。努力は、いくらしても足りない。万全の体勢で事に臨みたい。
本当はみんなと一緒がいいけれど……。
シモンやサラに託された約束を、モニカは守らなくてはならない。
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