第45話 世界に響け

 ユダヤ人が大量にガス殺されているという噂が絶えない。この春にはアウシュヴィッツでもとうとう始まった、という情報を、ユダヤ人レジスタンスの人が掴んでいた。

 アウシュヴィッツへ着いた人は、まず僅かな頑健な者とそうでない大多数の者の二つに分けられる。前者は強制労働に動員され、後者はその日のうちに殺害される。

 人々は「清潔にするためにシャワーを浴びてもらう」と説明を受けるそうだ。そして荷物を没収され、服を脱がされ、髪の毛を切られる。荷物がむしりとられるのはともかく、何故髪の毛が必要なのか、みなは首を傾げていた。とにかくその後「シャワー室」へと連れて行かれる。だが、出てくるのは水ではなく、「ツィクロンB」という毒ガスだ。

 こんなに非人道的なことが行われているのに、世界の人々は何故声を上げないのだろう? 国際世論はこの悲劇をどう思っているのだろう? イギリスは? アメリカは? 現状が秘匿されているとしても、噂くらいは伝わっていてもおかしくないのに。

 先月にはニューヨークで世界シオニスト会議なるものが開催されて、ユダヤ人国家樹立を要求する「ビルトモア綱領」が採択されたらしいが、ここのユダヤ人たちはそんな馬鹿げた曖昧なものでは救われない。ちゃんとした実質的な救援が、何故なされないのだろうか?

 今日、その疑問が解けた。

 工場を出ると、ゲットーの町は沸きかえっていた。

「イギリスがラジオで、ポーランドでのユダヤ人虐殺を放送したぞー!」

 えっ、とモニカとサラは顔を見合わせた。急いでドム・シェロトに駆け込むと、コルチャック先生を中心に、何人かの子どもやスタッフが壊れかけたラジオを囲んでいた。先生は「しーっ」という合図をして、二人を手招きした。

 その放送は英語だった。コルチャック先生がうんうんと頷く傍らで、サラがちんぷんかんぷんだという顔をしていたので、モニカは胸を痛めた。語学が得意なサラなら、環境さえ整っていれば、今頃英語なんて完璧に習得していたはずなのに。

 やがて言語はポーランド語に切り替わり、みなは食いつかんばかりにラジオに張り付いた。

「……ヒトラーが支配する地域では、何千もの──本当に何千ものユダヤ人が、ドイツ軍によって処刑されております。それだけではありません。ユダヤ人の居住区では、飢餓と疫病が蔓延しているというのです。……」

「これを世界中が聴いているのですね?」

 ステファ先生は小声で、しかし喜色満面で言った。

「それにドイツ人も聴いている!」

「おそらくは」

 コルチャック先生は答えた。

「やっと……やっとだ。しかし」

 続けて、呟くように言う。

「ロンドンにあるポーランドの亡命政権は、諜報活動によってとっくにこの状況を知っていたはずだ。何故、今になって……」

「何にせよ良いことですわ。これからは世論が味方につくのですから。ドイツに住む一般人だって、黙っていないはずです」

「そうですね、ステファ先生。……さて、君たちは疲れているだろう。興奮するのもほどほどにして、早く寝ておきなさい」

 ゲットーは数日間はこの話題で持ちきりだった。工場労働者の顔も目に見えて明るくなり、瞳は希望に輝いていた。

 世界が私たちを助けてくれる!

 何と心強いのだろう。きっともう安心だ。今にこの身は救われる。

 何よりも重要なのは、ドイツの市民が大量虐殺について知ったということだった。

 これまでナチスは徹底した秘密主義を貫いていた。虐殺において汚れ仕事はみんな、ユダヤ人からなるゾンダーコマンドにやらせていたし、用が済んだら、口封じのためにゾンダーコマンドの人もまた殺されていた。

 しかも、絶滅収容所はほとんどがポーランド占領地域に集中していた。もともとのドイツ領にある収容所は実に少なく、周辺住民であるドイツ人に詳細が漏れないように工夫されていた。

 ドイツ人は、ナチ党やドイツ軍が何をやっているのか、具体的には知らされていないようだ。

 だが蓋は開けられた。とうとう、ドイツの世論が動く。この窮状が知られる。人々の挽歌は世界に響き渡る。死者の嘆きが、犠牲者の断末魔が、虐げられた者たちの苦悶の声が。

 モニカは不安なような安心したような、複雑な思いを抱えていた。

 もうじき助かるということなら何よりだ。救いの手が差し伸べられるなら、これ以上、人がたくさん死ぬということはなくなる。

 ──予知は当たらないことがあるの。

 かつてカヤはそう言った。

 モニカの人魚としての能力は不完全だ。だからきっとモニカが日記に記した予知は外れているに違いない。未来は、予測とは違う方向に動くのだろう。

 だが人々の熱狂的な期待は、徐々に諦観へと変わっていった。

 他国からの支援がいっかな来ない。ソ連軍は遥か東方で停滞している。やっぱりだめか、とモニカは肩を落とした。

 国は利益で動くもの。情に訴えかけたところで、なかなか動いてはくれない。

 そうこうする内に、食糧事情は一層困難になった。これまでは取り締まりが比較的緩やかだった「密輸者」──体の小さい子どもが多かった──が積極的に射殺されるようになり、供給線は断たれようとしていた。

 やはり、モニカの予知は当たりなのだろうか。だとしたら、たくさん人が死ぬはずの月……七月が巡ってきたら、ここはどうなるのだろう。


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