第46話 大量輸送の噂

「ゲットー解体……ですか?」

 モニカが尋ねると、工場の先輩のおばさんが深刻な顔で首肯した。

「そういう噂さね。ナチス奴らはここを丸ごと潰す計画を立てている」

「でも、そんなのおかしくないですか。ここを作ったのはナチスなのに」

「何もおかしなことはありゃしないよ。奴らはユダヤ人が邪魔だったから、適当に閉じ込めておいた。でもそれだけじゃ物足りなくなって、いよいよワルシャワからユダヤ人を一掃しようって考え始めたんだ」

「一掃! ということは、ワルシャワからどこか別の場所へ連れて行かれちゃうんですね……」

「頭の鈍い子だね。みんなまとめて『シャワー室』行き、ってことに決まってるさ!」

「あー」

 モニカは相槌を打った。

「ああ、あたしらは終わりだよ! 労働力として使えることを奴らに示しさえすれば、生き残る道はあると思っていたのに」

 おばさんは悲嘆に暮れて、持ち場につきに行った──いずれ殺されるにしろ、今日一日の賃金を投げ出す理由にはならない。

 モニカの持ち場でも、みんなは黙々と手を動かしているが、沈鬱な面持ちだった。いつもだったら耳が痛くなるほど檄を飛ばす工場の偉い人も、もちろんユダヤ人として抹殺の対象だったから、今日は悄然として元気が無かった。

 モニカはどうにか助かる術は無いかと、作業をしながら考えていた。

 例えば、孤児院のみんなが連れて行かれる日に、カヤたちに頼んで大人に夢を見せてもらったらどうか? その隙にみんなで脱走したら?

 いや、人魚はそこまで大それた魔法を使えない。大人数をいちどきに惑わせることができるのなら、ワルシャワはそう何度も敵の手に落ちるはずがない。今現在人々が虐げられているのが証左だ。

 だいたい、仮に脱走がうまく行ったとして、どこに潜伏する? ユダヤ人を庇った者は問答無用で射殺されるのだ。仲間がみんな逃げ込める場所など皆無である。

 では、絶滅収容所へは大人しく連れていかれるとして、いざ殺される直前に人魚の助けを借りて、遠くへ逃げるか? ……いや、人魚はワルシャワから離れた場所では力を発揮できない。ワルシャワ市内に絶滅収容所ができたという噂は聞かないから、きっとどこか遠くの田舎で殺されるのだ。そうなるとカヤたちの手の届く範囲から外れてしまう。

 ……他に何か手は無いかしら。

 ぼーっと考えているうちに労働は終わった。賃金をもらって、日に日に小さくなっていくパンを買って、ちびちびと齧りながら帰る。

 考え事を続けながら、思い詰めた顔でドム・シェロトに着くと、孤児院内は珍しく明るい話し声で満ちていた。

 どういうことだろう、この緊急事態に。

「どうしたの、みんな」

「今度、劇をやるんだよ!」

 小さい子が答えた。

「……劇? 何を言っているの?」

「コルチャック先生が言ったんだ。今月、子どもたちで劇をやるんだって。みんなで練習して、他の人に見てもらうんだ。楽しみだなあ」

「そ、そうなんだ」

 先生には必ず狙いがある、とモニカは思った。子どもたちが幸せに暮らせるようにいつも考えてくれるコルチャック先生のことだ、この切羽詰まった状況で突飛な提案をしたのにもきっと意味がある。

 モニカの頭をよぎったのは、自分たちがゲットーに入れられる直前、最後の楽しみとして、コルチャック先生がみんなを「小さなバラ」に連れて行ってくれた思い出だった。

 今度は、収容所に連れて行かれる直前に、楽しみを提供するということだろうか。

「それで、何の劇をやるの?」

「あのね、『郵便局』」

「……知らない作品……」

「台本、見る?」

「もうできてるの?」

「先生たちがたくさん写して配ってたよ」

 台本を受け取り目を通したモニカは、よろめいた。

 それは、主人公が最後に死ぬ話だった。病で家から出られないまま、自由に外に出る日を夢に見て、旅立って行く。その姿は確実に、ゲットーに閉じ込められた子どもたちが、外へ出て死にに行く未来を暗示している。

 先生はとうとう覚悟したのだ。自分たちが近いうちに死ぬことを。ドム・シェロトの子どもたちも、残らず殺されるということを。

 コルチャック先生は優しい医者だ。子どものことを本当に理解していて、親身になってくれる人だ。たとえ子どもが相手でも、その子の病気がどんな症状なのか、分かりやすく説明してくれる。決して安っぽい励ましは……「きっと治る」なんてことは言わなかった。シモンに対してきちんと説明したように。

 この劇を通してコルチャック先生は、ドム・シェロトの子どもたちに、自分たちの運命を体感してもらうつもりなのだ。

 モニカが言葉を失っていると、台本を貸してくれた子どもが言った。

「ぼく、何となく分かってるよ。先生のやろうとしてること」

「えっ」

「こんな時に劇を見られるなんて、ぼくらはツイてるよ。コルチャック先生は最高だよ。ぼく、幸せだなあ」

 モニカはじっとその子を見下ろした。

「そう……そうだね。良かったね。私も、楽しみにしてる」

「一緒に見ようね」

「うん」

「ねえモニカ、今日はぼくたちのところへ来て、魔法を見せてよ」

「うん。……いいよ」

「こっち、こっち」

 小さな手がモニカを引っ張って行く。みんなに囲まれて、モニカは歌った。


 人魚が川にやってきた

 綺麗な声で歌った

 ある日人間がやってきて

 人魚は歌えなくなりました


「歌えなくなった人魚はどうなるの?」

 夢で作られた川でバチャバチャと水しぶきをあげて遊んでいた子どもが、無邪気に振り向いて尋ねた。

 モニカは寂しげに笑って、答えた。

「……死ぬの」

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