第56話 歌えなくなるまで


 死の世界の沈黙を、踏み荒らすような怒鳴り声がした。

「歌っていた奴を探し出して撃てェ!」

 モニカははっと我に返った。バァンと、入口とは反対側の扉が開いた。

 そうだ、私の戦いはこれからだ。泣くな。怯むな。臆するな。歯を食いしばって生きろ。

 モニカは空気が入れ替わるのを待ってから、敵にばれないようにこっそり息を吸い始めた。……苦しかった。結構ぎりぎりだった。

 そうしている間にも、仲間たちの遺体が、まるでモノのように乱雑に運び出されてゆく。部屋に余白が空くと、直立したままの遺体が、雪崩のように倒れ込んでしまう。隣のサラの身体が崩れ落ちて、モニカは身動きが取れるようになった。ぺたんと座り込み、次いで倒れ込んでしまう。今この部屋から隙を突いて逃げ出すのはできそうにない。足が限界を超えている。力が入らない。では、いつ、どうやって逃げ出そうか。

 不意に耳元で、「死んだフリ!」という低く鋭いイディッシュ語の囁き声がした。驚いて目を上げると、痩せこけたみすぼらしい作業着の男が、モニカの両脇に手を入れて床を引き摺り始めた。モニカは慌てて目を瞑った。

 死んでも離さなかったサラの手が、モニカの手から離れた。

 そうだ、収容所ではユダヤ人の中から選ばれたゾンダーコマンドという人々が働かされているのだった。きっとこの人もその一人で、モニカの味方になってくれるようだ。

 目蓋越しに太陽の光が見えて、モニカは自分が外へ出されたことを知った。次いで、いささか乱暴に投げ出された。嫌な感触がした──生温かい。多分、自分は今、仲間の死体の山の上にいる。

「おい、まだ見つからないのか!」

 親衛隊の人がガス室に向かって怒鳴っているのが聞こえる。そしてモニカは、ゴロゴロ、ガタガタ、という振動を感じ取った。何かに乗せられて移動しているようだ。

「止まれ、三番!」

 ドイツ語の怒声が空気を震わせる。荷運び役のゾンダーコマンドの人が、ヒュッと息を飲み、振動が止まった。

「そこのガキを引き摺り下ろせ! ……違う、そっちじゃねえ。そっちでもねえ、愚図が! そいつだ!」

 モニカは地面に落とされた。思わず「うっ」と言ってしまった。

「やっぱりこいつ、生きていやがる。てめえの目は節穴か!」

 ばれてしまったからには全力で逃げ出す他ない。モニカは立ち上がろうとしたが、大柄な男がモニカのお腹を踏みつけた。

 額に銃口が当てられる。パァン、と衝撃があって頭蓋骨に穴が開いた。不思議と痛くなかった。気絶するのは必至と思っていたが、意識が飛んだのは一瞬のことだったようで、すぐに頭がはっきりしてきた。

 モニカは血溜まりに頭を浸して、じっと倒れていた。上目遣いに見ると、モニカを撃った男が何故か別の方角へ銃を向けていた。その照準の先には、三番と呼ばれたゾンダーコマンドの人がいた。

「三番。貴様のような愚図は死刑だ」

 また銃声が耳を打った。彼の意識は完全にそちらに行っている。今しかない。モニカはパッと立ち上がって走り出した。

「マルチェンコ様!」

 ザッザッと他の足音が近付いてくる。

「ガキは俺が撃った。貴様は次の荷物から三番の代わりを選ぶよう伝えてこい」

「はっ。し……しかし……恐れながら隊長……」

「ああ?」

「そ、そこのガキ……ですか? 走って逃げている……」

「貴様は馬鹿か? 頭を撃たれたガキが走って逃げ……あァ⁉︎」

 気付かれたようだ。カチカチ、と背後で何かの音がする。

「チクショウ、俺のは弾切れだ。おい、貴様が撃て」

「はっ」

 また頭をやられた。今度はもう少し脳味噌の再生に時間がかかった。モニカはちょっとだけ身を起こし、ころんとうつ伏せになった。回復に力を使ってしまって、立ち上がるための体力が足りない。

「ひ、ひええっ」

 部下の男が腰を抜かして情けない声を出す。モニカはじりじりと匍匐前進のようにして逃げ続けた。

 一体どこへ行けば安全だろう。収容所は鉄条網に取り囲まれているし、監視塔だってある。森に逃げ込んで息を潜めることができたら一番良いが、森まで辿り着く手段が無い。

 そうこうする内に他の人たちが集まって騒ぎ出した。

「もう一回ガス室行きだ!」

「いや、墓穴に埋めてしまえ!」

「燃やせ!」

「待て。面白え」

 マルチェンコと呼ばれた男が、腰の剣を抜いた。

「この俺様が殺しても死なないってか? こりゃあ切り刻み甲斐がありそうだ」

 ザクッと、左の二の腕の肉が削がれた。

 モニカはバランスを崩し、ドッと顔を地面に打ち付けた。切られた箇所が熱い。

 徐々に筋肉が再生していく間も、モニカは片腕だけで何とか先に進もうとした。片腕では体の向きが思い通りにならない。左腕が治る前に右もやられた。それでも顎を使って一ミリでも先へ進む。

「何で再生してるんだ? ユダヤ教の儀式で人肉でも食ったのか? 気色悪い奴め」

 マルチェンコはにやにやとモニカを見下ろした。

「ふうん? 治りは右の方が遅いなぁ? だんだん遅くなるのか? 実験してやるよ、そら」

 今度は背中。

「……ぐっ、むむ……」

 痛みに目が眩んだ。駄目だ、気弱になってはいけない。希望を忘れるなと、モニカはみんなに教わったのだ。

「テメェ、どうやったら死ぬんだ? 頭を撃っても死ななかったな。心臓を突けばいいのか? それとも首を切るか? 順々に試してやろうか」

 ドッと冷や汗が出た。

 多分それは──死ぬ。首を切られたら死ぬ。声帯が使えなくなるから。歌えなくなるから。

「どのみちユダヤ人は皆殺しだが、お前を殺すのはしばらくお預けにしてやろう。限界までズタズタに刻まねぇと面白くねぇ。上にも報告書を出さねえとな」

 視界が霞む。体が芯から震えるのは、疲労のせいか、痛みのせいか、恐怖のせいか。

 ああ、最悪だ。もう嫌だ。解放されたい。悲しみからも、痛みからも。

 ごめん、サラ。頑張ったけど、生き延びられないみたい。約束を破ってしまって、本当にごめん。

 ごめんなさい、先生。私は先生たちを救えなかった。なのに私は私を救います。どうか許して。

 モニカは、今はなき町を想い、小さく歌い出した。


 並ぶは家の赤い屋根

 流るる川の銀の色

 いにしえの町ワルシャワを

 彩る二色の尊さよ


「モニカ」

 カヤが涙を流して岩の上に座っていた。

「あなたはまだ若いのに」

 モニカは微笑んで見せた。

「カヤ。私、頑張ったよ。だからあとは……カヤとお話ししていていいですか?」

 カヤはひんやりとした腕でモニカを抱き上げた。小さく痩せこけた身体は軽々と持ち上げられて、岩場まで運ばれた。モニカはカヤにもたれかかって座った。

「よくやったわ、モニカ。しかもここまで戻ってきてくれるなんて……。あなたは立派だったわ。私の自慢の娘よ。……あああ、なんで、なんでなんで……!」

 カヤの腕の中で、モニカは感謝を込めて言った。

「ねえ、カヤ、私を生んでくれてありがとう。私、生きていて幸せなことがいっぱいあったんです。たとえばね──」

 モニカは孤児院での思い出を、「本当の歌」に乗せて語り始めた。


 大きな白い 孤児の家

 楽しく暮らす 子どもたち

 笑いて歌う その中に

 幸いありと 思うかな




 おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る