第53話 列車に乗る

 ウムシュラークプラッツは簡素で粗末な作りの駅だ。ここも多様な人でごった返している。SSが人々を叱り飛ばす。あちこちで鞭が振り下ろされる。喚き声や呻き声が絶えない。空気は埃っぽくて暑苦しい。

「痛いよう」

「お母さーん」

「神よ……!」

「やめて! 死にたくない!」

「あああああ」

「おしまいだあ」

 そんな中で、痩せこけた老人を先頭に、整然と四列に並ぶ子どもたちは、異様な存在感を放っていた。

「これは……? この子らは何だ?」

 SSの誰かが問う。

「コルチャックとその子どもたちであります」

 誰かが答える。

「つまりこの人が、あの……医者で、教育者で、作家の。……そこのあなたが、『小さなジャックの破産』を書いたのか?」

 SSの男はコルチャック先生に、比較的丁寧に話しかけた。先生は至って冷静に応答する。

「書いたとも。それが何か?」

「いや……あれは良い本だ。私はあれを子供の頃に読んだ……。あなたは……あなたは、ここに残ってもよろしい……私が許可する」

「それで、子どもたちは?」

「子どもたちは、行かねばならない」

「そうかい」

 先生はSSの男に背を向けた。男は言葉に詰まった様子で先生の背中を見ていたが、やがて深々と軍帽をかぶり直し、暗い顔つきで首を振って、立ち去った。

 モニカたちは、しばらく喧騒の中で待たされた。子どもたちは辛抱強く立っている。太陽が中天に達した頃、盛大に音を立てて、駅に列車が到着した。赤茶色をした、家畜用の貨物列車だ。扉が開けられ、化け物の腹の中のような真っ暗な空間が現れる。入り口に板が渡されて、人々はどっと、荷物のように無理やり詰め込まれた。

 子どもたちもその只中へ、だんだんと飲み込まれ始める。モニカは人混みの中を一歩ずつ前へ進んだ。サラとは片時も手を離さなかった。一歩、また一歩、列車の入り口へ近づいていく。

 そこへ突如、男の人の叫び声が聞こえてきた。SSの人の声でも、積み込まれていく人の声でもない。何やらその声音には必死さが滲み出ていた。最初はワアワアいう騒ぎに紛れて何を言っているか分からなかったが、次第に言葉の輪郭がはっきりしてくる。

「……先生! 先生、コルチャック先生!」

 モニカは顔を上げた。コルチャック先生はまだプラットフォームに立っている。その禿頭が、声のする方を向いた。

「ああ、あなただ!」

 若い男が人混みを掻き分け掻き分け近づいてくる。

「コルチャック先生っ!」

「私に何か用かね?」

「これを!」

 その人は、一枚の紙を高く掲げ、振り回した。

「ここに、ドイツ軍からの特赦が! あなたは行かなくて良いのです。特別に赦されたのです、正式に。あなたは、自由の身なんです!」

 コルチャック先生はちらっと笑うと、やはり、黙って貨物列車に向き直った。

「先生! あなたは」

 若者が声を張り上げるのも虚しく、先生は家畜用貨物列車の中に消えた。後には、肩で息をして呆然とコンクリートに膝をつく若者が残された。

 モニカも列車に乗り込んだ。つん、と消毒液の匂いが鼻を突き、ケホッと咳が出た。ウムシュラークプラッツの全員が積み込まれると、鉄の扉がガラガラピシャッと閉じられた。ゴトンゴトン、ゆっくり車輪が動き出す。

 ──東方へ。

 速度が上がる。小さな明かり取りの窓から外の様子を窺うのは、容易ではなかった。

 列車の中はひどい有り様だった。全員が立ったままぎゅうぎゅう詰めにされていて、身動きも取れない。揺れはひどく、車体が傾くたびに、右から左から人数分の重さが襲ってくる。

 一体どこへ。いつまでかかる。

 ああ、もう、どうでもいい。今はみんなの尊厳を守ることだけ考えよう。無心になろう。

 暑い。喉が渇いた……。いざ歌う時になって喉がカラカラだったら一大事だ。そうか、だから予備の水筒を持っていくべきだと予知をしたのか。でも自分ばかり飲むのは忍びないから、年少の子にも分けてあげなくては。駅までの長い道中で、もう自分の水筒を空にしてしまった子もいることだろう……。

 足ががくがくしてきた。炎天下を何キロも歩いた時点でもうクタクタだったのだ。これからはこの窮屈で負荷の大きい状況でずっと立っていなければならないのかと思うと、気が遠くなりそうだ。

「モニカ、足がつらいの?」

 サラがささやいた。

「よりかかってくれていいわよ」

「でも、サラだって疲れているでしょう」

「いいから。ほら」

 サラが握った手を引いた。情けなくもモニカの脚は、へにゃりと力をなくした。

「ごめん」

「いいって」

 モニカは目を閉じた。汗がこめかみを伝った。

 頭に浮かべたのは、広い広い野原だった。小川があって、森がある。みんなに見せる夢はこの風景にしようと、もう決めていた。

今モニカたちは楽園へと向かっているのだ。モニカは列車に揺られながら、なるべく豊かに詳細に美麗に立体的に、イメージを再現できるよう、頭の中で復習した。

 草の葉の露。甘酸っぱい木の実。爽やかな風。葉擦れの音。水面に反射する夏の日差し。踏み締めた大地の感触。子どもたちの笑い声。コルチャック先生の幸せそうな姿──。

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