第54話 トレブリンカ

 猛烈に喉が渇いてきたので、我慢の限界が来て、モニカは空想をやめた。知らない人同士でぴったり体を押し付けられている中、モニカは苦労して腕を動かすと、自分の水筒からごくごく水を飲んだ。予備の水筒からも飲んだ。

 残りの水筒をえいやっと引っ張り出して、他の子どもに渡した。水筒たちは子どもたちの頭上を通ってコルチャック先生のもとに届けられた。

 先生はまず最年少の女の子に水を飲ませると、これまた苦労して年少の子の手に水筒が渡るように工夫をし始めた。

 もうどれほど経ったのか分からない。でもまだ日は暮れていなかった。行き先も所要時間も分からない旅路の、何とつらいことか。

 まだ着かない。よりかからせてもらっていても足が震える。早くも再び喉が渇き始める。まだ着かない。まだ、まだ、まだ──。

 ゴトンゴトンという揺れが徐々にゆっくりになってきた。モニカは己の心拍数が跳ね上がるのを感じた。人々も緊張して体を強張らせている。

 小窓からは鉄条網が確認できた。その向こうにまばらに木が生えていて、監視塔のような建物も見えた。

 プシューと蒸気を立てて、列車は小さな駅に停車した。

 ──着いてしまった。

 ドアが開けられ、板が渡される。次の瞬間には耳を覆いたくなるような怒鳴り声が、人々を駆り立てた。

「降りろ! 並べ! とっととしろ!」

 あとは何を言っているのか分からない。ただ大きな声を上げて人々を威嚇し、竦ませる。

 モニカは追い立てられながら小走りでプラットフォームに降り立った。震える足を𠮟咤しながら、訳もわからずに整列させられる。

「早くしろ! のろまめ」

 ナチスの人たちはやたらめったら鞭を振るう。モニカは首を縮めて、更に前へと詰めた。

 横目で、看板に地名が書いてあるのを確認した──「トレブリンカ」。

 列は、男性と女性に分けられた。コルチャック先生とは引き離されてしまった。ステファ先生がしっかりと後ろについていた。

 人々は左手にあるバラックへと追い立てられていった。そこで、これからシャワーを浴びると言われた。だから服も荷物も置いて行けと。

 本当にシャワーに行くのだと思わせるためだろうか、バラックには荷物置き場も服の置き場も設置してあった。芸が細かい。二度と持ち主のもとには返らないものなのだと、みんな知っているのに。

 モニカは丸裸になった。着ていたよそゆきの服を、十三番のフックにかけた。荷物も置いて、宝物の紙切れだけを取り出して、握りしめた。

 サラは大事な眼鏡を片時も外すまいと決めていたようだが、背の高い女性の警備兵にあっけなく取り上げられてしまった。モニカが息を飲んでその光景を見ていると、何を握っているのかと怒鳴られて、紙切れも没収された。これでモニカには、何にもなくなってしまった。

 次のバラックでは、髪を切られた。カヤとおそろいの金髪は全て刈り取られ、モニカは丸坊主になった。

 髪がなくなると、不思議なほど、誰が誰だか分からない。

 列は進む。

 男女が合流した。前方にコルチャック先生がいた。男の子たちも。

 やがて裸ん坊の列は、細い真っ直ぐの道を歩かされた。その間、SSの人が乱暴をした。少しでも遅れると、鞭で容赦なく叩かれた。逃げようとする者は撃たれた。モニカは懸命に歩いたけれど、何度か叩かれて気が遠くなりかけた。

 それから──部屋の前で待った。先頭の団体が部屋に押し込まれ、バタンと扉が閉まる。部屋からはじきに、耳を塞ぎたくなるような叫び声が聞こえてきた。順番を待つしかない人々は、いよいよ動揺した。

 十五分かそこらで、列は少しだけ前へ進んだ。進んだ分だけ、人が死ぬ。叫び声を聞いて、前へ進んで、叫び声を聞いて、前へ進む。それを何周も繰り返して、遂にモニカたちの番が来た。

 扉が開いた。

 ──ここが。モニカは体を強張らせて歩いた。部屋は空っぽで、殺風景で、汚れていて、血の跡まである。天井にはご丁寧にシャワーが取り付けられている。

 先生方とドム・シェロトの子どもたちと他の知らない人々が、部屋に詰め込まれた。モニカはサラにぴったりくっついて、ドアから少し離れた部屋の真ん中あたりに流れ着いた。

 もう足腰が限界で、今にもくずおれそうだったけれど、くずおれる隙間すらなくて、モニカは他の子どもの体に支えられるようにして立たされていた。

 サラががたがたと震えているのが直に伝わってきた。モニカはきゅっとサラの手を握り直した。モニカもまた震えていた。

 ドッドッドッと心臓の音がうるさくて、嫌が応にも、自分が今生きていることを実感させられる。

 死にたくない。死んで欲しくない。それなのに、もう、ここまで来てしまった……。

 ──ドアが、閉められる。

 時は誰をも待ってくれない。

 モニカは思いっきり息を吸い込んだ。

 ガシャアンと大きな音が轟いて、部屋の扉が閉じ、世界の一切のものとの繋がりが絶たれた。


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