第30話 時代の影響力
「な、何だ? 何事だ」
仲間の蘇生を試みようと胸骨圧迫を始めていたドイツ人は、仰天してモニカを見た。
「わ────ッ」
「喧しい、黙らんか! このクズ!」
再び怒鳴られたが、モニカはもう夢の世界に行っていた。
そこで目にしたものは、まさしくモニカが危惧していたことそのものだった。
「やめて、やめてカヤ!」
ざぶんと川に潜り込んで、カヤにむしゃぶりつく。カヤは一人目のドイツ人の男の頭を押さえつけ、川に沈めているところだった。
「よくも私の娘を……! 殺してやる! もう一人もだ──引き摺り込んでやる。二人とも溺れ死ね!」
「やめて、殺さないで、お願い! ……ムグッ」
モニカはカヤを止めるのに必死で、自分も沈みそうになってしまった。
「! モニカ」
カヤはドイツ人を水中に放り出して、モニカを水面まで連れて行った。
ゲホゲホと咳き込む娘に向かって、悲痛な声で叫ぶ。
「殺さないでって、どうしてよ、モニカ! 我が子を傷つける奴は許さない。ワルシャワに来たナチスの連中なんて、皆殺しにしてやるわよ!」
モニカは負けじと叫び返した。
「ゲットーの中でドイツ人が死んだら、ユダヤ人が悪いって言われて、もっともっと人が死ぬ!」
「なっ……」
カヤは絶句した。その隙にモニカは畳みかけた。
「奴らは何の意味もなく殺すの! 私たちはただ奴らの気まぐれに巻き込まれないように、頭を下げて生きていくしかないの。ここはもう戦場じゃないの。だから、ワルシャワでドイツ人を殺さないで!」
「そんな……そんな。じゃあ私は一体何のために……!」
モニカは黙った。人間界では、もう一人のドイツ人が同胞の蘇生を諦め、モニカを痛めつけ始めたので、正直ここに居続けるだけでしんどかったのだ。
カヤはモニカを抱き寄せた。
「列強の支配下にあった時、ワルシャワではこんな酷いことは起きなかったわ! どういうこと……ゲルマン人はいつからこんなに残虐な生き物になったの……」
「ゲルマン人だからではない」
もう一人、人魚が川から顔を出した。精悍な顔つきの、堂々とした風格のある青年だった。
「戦争だからじゃよ、カヤ。戦争は、等しく人の心を荒ませる。人魚の心もな……」
「長老様、それなら私は一体どうすればワルシャワを、娘を守れますか」
「歌うのじゃ、カヤ。人々の心が少しでも安らぐように」
カヤの腕が、力無く垂れ下がった。
「それ……だけ……?」
長老は重々しく頷いた。
「人魚にできることは少ない。だがほんの少し、人の心を癒すことはできる。歌うがいい。疲弊した弱者の心を慰めよ。そして、暴力と権力に囚われてしまった人たちの心をなだめよ」
「……」
「敵はドイツ人とは限らない。真の敵は、ドイツ人を、ポーランド人を、ユダヤ人を……全ての人間を狂わせる、巨大な時代の影響力じゃ」
「時代の、影響力……」
カヤは呟いた。長老は、遠い目をした。
「良くも悪くも、人々の意思は、時代という大きな流れの影響下にある。それは人が作るものであるのと同時に、人の手には負えないものでもある。例えば中世のポーランドは大国で、ユダヤ人の受け入れを積極的に行っていたが、昨今のポーランドは全く逆であっただろう。とにかく、人種に関わらず、人は生まれた時代相応の行動を取るというもの。目の前の人間を一人殺したところで、そなたの娘は救われまいぞ……」
あ、とモニカは声を上げた。
「ごめんなさいカヤ、もう居られない……痛い」
「モニカ」
カヤの前からモニカの姿がふっと消えた。
人間界のモニカが、蹴られすぎて気絶したのだ。
カヤは悔しそうに拳で水面を叩いた。
「娘が酷い目に遭っているのに、助けに行けない」
「カヤ。だから人間との恋は、不幸を生むと──」
「それを言ったらいくら長老でも許しませんよ」
カヤは鋭い目つきで長老を睨みつけた。
「不幸を生むですって? あの子は幸せになるために生まれてきてくれたんですよ。絶対に幸せにしてみせる……」
カヤの頬を伝った涙が、ヴィスワ川に落ちる。
その下流では、放置されていた一人目のドイツ人の体が浮かび上がってきていた。彼は目を覚まし、川岸に泳ぎ着いて水を吐き出し、ほうほうのていで人魚界から消えた。
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