第29話 ワルシャワ・ゲットー


 ゲットーには飢餓と病気が蔓延していた。子どもたちは食糧も乏しく、秋風を遮ってくれるものもなく、みんな惨めな思いで過ごしていた。寒い、ひもじい、つらい、苦しい。

 配給のパンはあまりにも少なかった。でもゲットーの外から密輸でも試みようものなら銃殺されるし、ゲットー内の闇市に出回る食糧はあまりに高額だ。

 モニカが決死の覚悟で持ち込んだジャガイモも、モニカが一口も食べないままに、一日にして皮まで食べ尽くされた。

 学校はゲットー内で非合法に再開したので、子どもたちは一年ぶりに勉強に行くことができた。モニカも一年遅れで勉強を始めた。でも登下校中、例えばドイツ人がうろついていたりすると、子どもは竦み上がった。何をされるか分からない。一挙手一投足、彼らの気に障らないように気をつけねばならない。

 ある日、ちょうど下校している時に、モニカたちは嫌な場面を見ることになった。尤も、こんな光景は日常にありふれていて、嫌だと思う感覚はかなり失われていたのだが──何人かのユダヤ人が、地面にうつ伏せにされて、二人のドイツ人の軍靴に踏みつけにされているのだった。

 ユダヤ人たちを助けようとする者などもちろんいない。そんなことをしたら自分がもっと酷い目に遭うこと請け合いだからだ。

 子どもたちも、ササッとその場を通り過ぎようとした。なるべく奴らの目に止まらないように。奴らの気に障らないように。

 モニカは先頭の子どもに続こうとして、道に散らばっていた瓦礫に躓いた。転んで、膝をすりむく。

 その痛みよりも何よりも、「しまった」という恐怖心が全身を支配した。震えながら立ち上がり、逃げるように先を行く仲間の背中を追いかける。

 と、思ったら、またも体が地面に叩きつけられた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 ドイツ人に足を引っ掛けられて転んだのだ、と認識できた時の恐怖は、先程の比では無かった。

 ──捕まった。

 子どもたちはモニカに気付いて、戻るべきか否か逡巡している。

「先へ行って! 私に構わないで!」

 言った口先に蹴りが飛んだ。大の男の容赦ない蹴りだ。

「おい、何だその意味の分からん下等な言語は。まずは俺たちに『すみませんでした』だろうが。俺たちを差し置いてクソガキどもにご挨拶たあ、舐めた真似をしやがる」

 モニカは、血の味のする口の中を必死に動かして、ドイツ語で「すみませんでした」と言った。だが暴行が止まることはなかった。

「すみませんでした。すみませんでした。すみません……」

 ドイツ人は野卑な笑いを浮かべて、モニカをサッカーボールか何かのように蹴って遊んだ。もう一人のドイツ人も、それを笑って見ている。

 ところが、ふっと、飛んでくる足先が消えた。

 モニカが腫れた顔でおずおずと見上げると、──何もない空中から白い手が現れて、ドイツ人の足に絡み付いていた。

「なっ……」

 ドイツ人はがくっと膝をつき、他のユダヤ人の横に倒れ伏した。そればかりか、白目を剥き、苦しげに喘ぎ出した。まるで、──まるで、川に溺れているかのように。

 周囲の人々は唖然とした。何が起こっているのか、何故この人はこんな場所で溺水しそうになっているのか、見当もつかない様子だ。

 ユダヤ人たちは保身のために無関心を貫いたが、もう一人のドイツ人は驚きを隠せない様子だった。

「おい、どうした」

 それから、同胞が泡を吹き、息をしていないことを確認すると、八つ当たりでモニカを怒鳴りつけた。

「てめえ……何をしやがった!」

 だがモニカは彼に構っている場合ではなかった。

 これはまずい状況だ。自分が何とかしなければ。

 大きく息を吸い込む。

「わ────ッ!」

 モニカは、腹の底から大声で、喚くように歌った。

 人魚の川に、行くために。

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