第4章 お引っ越し

第28話 十月のこと

 十月中旬にワルシャワ・ゲットーが完成した。すぐに、ドム・シェロトの子どもたちに、ゲットーへ移住するようにとの命令が下った。

 ドム・シェロトが建っているのは、ゲットーのすぐ前なのに、それでも引っ越さなくてはならない。閉じ込められなければならない。

「さあ、新しいお家へ行くよ」

 コルチャック先生は明るく言った。子どもたちは荷物を持ち、張り切って二列に並んで行進した。ポーランドの旗と、ユダヤの星の旗を掲げて、歌を歌って。

 ゲットーの入り口には、ドイツ人の警察官やSSの人、それにユダヤ人の中から選ばれたゲットー警察の人なんかが見張りに立っている。見るだけで体が縮み上がるような威圧感だ。

 新しい住居は、クロフマルナ通りの一つ先、フウォドナ通り。

 子どもたちは滞りなくゲットーへ入っていく。スタッフの一人、ザレフスキさんも子どもたちに続いてゲットーへ入ろうとして、SSの人に止められた。

「お前はポーランド人だろう」

「しかし、私も子どもたちと一緒にゲットーに入りたいんです」

「馬鹿を言うな」

 SSの人はザレフスキさんを思い切り殴った。鈍い音がして、ザレフスキさんは倒れた。子どもたちの間に大きな動揺が走り、行進は止まった。

「キャーッ」

「ザレフスキさん!」

 ステファ先生が慌てて子どもたちを宥めに行った。年長の子が何人か、慌てて列を抜けて駆けつけた。

「コラ! 列を乱すな!」

 その隙をついて、ジャガイモを積んだトラックが入ろうとしたが、これもドイツ人警察官に止められた。ジャガイモの持ち込みは禁止されていたのだ。

「これらは子どもたちの大事な食糧なんです」

 コルチャック先生は抗議した。警察官は眉を吊り上げた。

「貴様は……ユダヤ人かぁ? 何故腕章を付けていない! 図々しくもポーランドの軍服なんぞ着やがって!」

 今度は警官が先生を殴った。

「先生!」

 列に残っていた年長の子たちは色を失って、コルチャック先生の元へ駆けつけた。そんな騒動の中でも、警官はドイツ語で何か喚き立て、子どもたちをゲットーの方へ押しやろうとしている。彼らのあまりの剣幕に子どもたちはたじたじになったが、ドイツ語を修得しているサラが、ずいっと前に出た。

「ちょっと待って。私たちは先生と一緒に行きたいだけなんです」

「ああ? うるせえ、クソガキが。このジジイはゲットー内の刑務所行きだ。てめえらもとっととゲットーに入りな!」

「刑務所!?」

 サラはポーランド語で叫んだので、周りの子どもたちにも状況が分かった。先生は腕章をつけていないことと、ジャガイモを運ぼうとしたことで、刑務所に入れられてしまうのだ。何と恐ろしい!

「先生を連れて行っちゃ駄目!」

「やめて、お願い」

「僕たちから先生を引き離さないで」

 ところが、コルチャック先生は穏やかに言った。

「反抗してはいけないよ。私は大人だから大丈夫だが、君たちまで殴られては大変だ。さあ、先に新しいお家へ行きなさい。私もじきに行く」

「でも!」

「私は大丈夫だ。──行きなさい」

 コルチャック先生はステファ先生に目で合図した。

 みんなの前で、コルチャック先生は連行されていってしまう。ザレフスキさんはゲットーから引き剥がされていく。モニカたちにはなす術がない。

 シモンが一人で飛び出して、コルチャック先生に追い縋ろうとしたが、ステファ先生がすんでのところで捕まえた。

「いい加減にしなさいっ」

 ステファ先生はとびっきりきつい声音で、シモンを叱りつけた。さすがのシモンもびくっとした。

「コルチャック先生の言うことを聞くの。私たちは、こっち!」

 シモンはコルチャック先生とザレフスキさんとステファ先生を見比べて、顔色を白くして震えている。ステファ先生は怒るととても怖いけれど、コルチャック先生やザレフスキさんがこれからどんな目に遭うのか、そちらの方がよほど怖いのだ。

「行こう、シモン」

 モニカは小さい声で言った。シモンはコルチャック先生が行ってしまった方を振り返りながら、しおしおと歩き出した。

 そうして到着した新しいドム・シェロトは、百五十人の子どもたちが暮らすにはあまりに粗末な、古い校舎だった。

 空襲の被害を受けて、ガラス窓は軒並み割れていた。床にはガラス片が散らばったまま、しかも雨ざらしで目も当てられない。住居とは呼び難いこの引越し先の有り様に、子どもたちは不安げにざわめいた。

 モニカは、ぼろきれでカモフラージュしたジャガイモの山を運び込めたことに、ひとまず安堵した。大人には夢が見えないから、ジャガイモを歌の魔法で隠すことはできなかったのだが、気付かれずに持ってこられて良かった。

 それから、わっと叫び出したい衝動に駆られた。

 まさか、まさか、コルチャック先生なしで新生活が始まるなんて、思ってもみなかった。その上こんな、狭くて汚くて、滅茶苦茶に壊れたままの建物で。

 先生は無事だろうか。酷い目に遭っていないだろうか。ちゃんとここへ来てくれるだろうか。ザレフスキさんの怪我は、酷くはないだろうか。

 何でこんなことに、と誰かが言った。みんな同じ思いだった。


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