第48話 始まる

 劇の上演から四日後の七月二十二日、この日はちょうどコルチャック先生の誕生日だった。


 朝、ゲットーは武装した警官隊に包囲された。更に、ドイツ軍からの命令が、親衛隊を通してユダヤ人評議会に伝えられた。


「ドイツ企業に勤める者、ユダヤ人評議会メンバー、ゲットー警察官、病院に勤める者とこれらの家族を除く、ワルシャワの全てのユダヤ人は、年齢・性別を問わず、東部へ再移住しなければならない。身の回りの品、貴重品、三日分の食料を持つことが許される。移住は本日よりただちに開始する。毎日六千人を集めること」


 それから、ゲットー警察の人も動員して、大規模な人狩りが始まった。


 再移住が本当は何を意味するかなんて、ゲットーの中の人々はみんな分かっていた。


 終わりの刻が来た。


 とうとうナチスは、ワルシャワのユダヤ人を一人残らず殺す計画を実行に移すのだ。


 もちろん、逃げようとすれば射殺される。

 人々にできる最後の足掻きは、現実から目を背け、助かるかもしれないという希望に縋ること──本当にただの移住に過ぎないと思い込もうとすることだった。

 一方で孤児院の子どもたちは、穏やかに死を受け入れていた。『郵便局』の上演で、心の準備はすっかり整っていた。


 モニカは、ゲットーに入る時はじゃがいもで一杯になっていた鞄に、水筒を幾つか入れた。何だかこれがどうしても要り用なのだという気がしていた。

 それから、七歳の時にもらって以来宝物のように大事にしている紙切れを入れた。


「この子の名前はモニカ・ブルシュティン。どうぞよろしくお願いします」

「この子は人魚と人間の混血です」


 この紙切れが、モニカがモニカであらしめるもの。カヤとコルチャック先生がくれたもの。モニカのことが書いてあるもの。


 そうしている間にも、人々はどしどし連れて行かれる。

 地域ごと、建物ごとに、大量に連れ去られていく。一日六千人のノルマを達成するために、敵も血眼になって人間を狩り立てた。

 町はかつてないほど騒然としていた。


 翌日の二十三日、ユダヤ人評議会議長のチェルニアクフさんが自殺した。青酸カリを使った服毒自殺であった。

 遺書には、「ナチスの連中は、私たち評議会の手で我が民族の子どもたちを殺せという。私に残された道は死しか無い」と書き残してあったという。彼の後を追って彼の妻もまた自殺した。


 コルチャック先生は、この事実にかなりショックを受けた様子だった。愕然として立ち尽くしていた。

 モニカは、音楽界に来てくれたチェルニアクフさんの姿を思い出していた。一部では悪評の高い人物だったけれど、孤児たちのことを気にかけてくれて、モニカたちにとっては優しくて立派な人物だった──。


 チェルニアクフさんだけではなかった。他にも自殺者は急増した。

 そんな悲劇に頓着する様子もなく、人狩りは連日行われた。ゲットー警察がユダヤ人の掃討に一役買っていた。彼らは自分と家族が助かるために、隠れていた他のユダヤ人を次々と摘発し始めた。また逆に、同胞を死へと追いやる仕事を厭い、職を辞したり自殺をしたりするゲットー警察の人もいた。


 そのうちナチスは食糧の配給を停止し、人々を食べ物で釣ることもし始めた。

「自発的に移送を希望する者は三キロのパンと一キロのマーマレードを、集合地にて無料で供与する」。これを聞いた人々は駅へと殺到した。そしてそのまま貨物列車に乗せられて連れて行かれた。

 孤児院の人々はこの釣り行為に全く関心を払わなかった。ただ迫りくる運命を静かに受け止めるのみだった。


「この際だからはっきり言わせてもらうけど」

 ある時サラは、何でも無いことのようにモニカに語りかけた。

「あなた一人なら助かるんじゃないの? 頑張れば逃げ切れるわよね? 何しろ怪我がすぐに治るんだから」

 モニカは寂しそうに微笑んだ。

「サラは、私を一人だけ取り残すつもりなのかな?」

「そうよ。何はともあれ生き残った者勝ちなのよ、この世界は」

「ドム・シェロトの仲間を見殺しにして私だけ助かるなんて、できないよ」

「ちょっといいかしら」

「?」


 モニカがキョトンとしていると、サラが詰め寄ってきて、コツンと頭に拳骨を落とした。


「わ、びっくりした」

「みんなの分まで生きるのがあなたのつとめよ」

「え……」

「あなただけでも生き残って、この惨劇を語り継ぎなさい」

「……」


 モニカは俯いた。


 生は束縛、死は解放。それなのに。


「……どんなにつらくても生きなければいけない?」

「その通りよ。残酷なことを言うようだけれど」

「……分かった。生き残るように、努力するよ」

「そうしなさい」


 サラは力強く頷く。その顔を見ていると泣きたくなった。


「でも私には託されたものがあるから」

「え?」

「シモンがね、……もしみんなが苦しむようなことがあれば、みんなのために歌ってやってくれないかって、言ったの」

「……それは」

「だからサラ、何も怖くなんかないからね。最後まで私が一緒にいるからね。絶対に離れたりしない。生き残るかどうかは、その後の話。こればっかりは、譲れない」


 モニカの揺るぎない灰色の瞳を見て、サラは溜息をついた。


「あなたって、ボンヤリした性格のくせに、一度決めたらとことん頑固よね」

「えへへ、そうかも」

「いくらあなたの息が長く続いたって……歌っていたら、ガス室にいる間、耐えていられるかどうか分からないじゃない。このお馬鹿さん」

「うん。でも私は、生まれ持った力を、みんなのために使うから」

「呆れた……。本当に、あなたって、お馬鹿さんで……底抜けのお人好しだったのね」

「えへへ」

「はあ……。大好きよ、モニカ。きっとうまく逃げてね」

「私も大好きだよ、サラ。……じゃあ、ちょっと失礼」

「どうしたの?」

「ちょっとね、歌の準備をする。しばらく、隣で歌わせて?」


 サラは無言でモニカを促した。

 モニカは静かにハミングを始めた。


 サラの周りには、翠や紫の透き通った翅を持った蝶々が舞い始めた。サラはそっと手を差し出して、小さな幻に触れてみた。


 モニカはちょっとサラの方を見て笑った。


「蝶々は、おまけ。今から私は私に魔法をかけるから、しばらくうるさいかも」

「うるさいなんて思わないわよ」


 そう、ありがとう、とモニカは言った。

 蝶々は空中に溶けるようにして消え去った。

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