第23話 資金と食糧
列を成して足並み揃えてやってきて、ワルシャワを占領したドイツ軍は、市民の虐殺を始めた。
同時並行で、総督府はユダヤ人の資産を凍結し、仕事を奪った。ユダヤ人たちは瞬く間に困窮した。
食糧は配給制になった。ポーランド人が貰える量も微々たるものだったが、ユダヤ人は更にその半分しか貰えなかった。
闇市でものを買えるほどのお金を持たない貧しい人々は、いよいよ追い詰められた。
そして学校教育やあらゆる慈善活動も、停止に追い込まれた。
運営費のかなりの部分を支援金で賄っていたドム・シェロトの運営は、非常に困難になった。
今や、保護されている孤児たちの数は百五十にものぼっている。
コルチャック先生は、テロルが横行する街の中を歩いては、あちこちへ寄付を募りに行った。これから厳しい冬がやってくる。子どもたちのためには、一ズウォティでも多くの寄付が、一つでも多くのジャガイモが、必要だった。
しかし市民たちの財布の口は固い。ただでさえ稼げないのに、物価が異様に高騰して、誰もがお金に執着していた。お金持ちの人ですら、容易にはお金を手放してはくれなかった。
先生は困り果てた。
コルチャック先生は子どもの人権を人一倍重視する人だった。
困難にあたって、まず救済されるべきは、子どもたちだ、という信念を持っていた。今この時こそ、子どもたちに救いの手が差し伸べられるべきだというのに……。
ある日先生はユダヤ人の市民に向けて、「二千ズウォティの借金をお願いする」という声明を発表した。
「子どもたちを助けることは私たちに共通の責任であり、二千年来の伝統でもあるのです」
先生の精一杯の声は反響を呼び、何とかお金は集まった。
一方でモニカは、お昼ご飯に現れなくなった。自分のパンは、毎日、年下の子どもたちにあげてしまう。それで一人で庭に出て、歌を歌って過ごした。
サラは内心、そんなモニカを咎めたかったが、何も言わなかった。小さい子たちに分け与えてはいけない、だなんて、言えるはずがなかった。
そしてモニカはというと、相変わらず背があまり伸びない代わりに、特に痩せたりもしなかった。
それには、モニカしか知らない秘密があった。
モニカは、カヤのところで食事にありついていたのである。
「あまりこちらのものばかり食べても駄目よ」
カヤは念を押した。
「人魚としての体力は身につくけれど、人間としてのあなたが衰弱してしまうから。ちゃんとあちらでも、ものを食べなさい」
モニカは、焼いてもらった川魚を貪りながら頷いた。
人魚の世界も、以前のように穏やかではなくなっていた。
戦闘が終わってワルシャワが占領された直後のこと、やっと余裕ができたモニカが人魚の世界に行ってみたら、カヤが意気消沈していた。
まず目を引いたのが、ぶち壊されてヴィスワ川に頭を突っ込んでいる、ドイツ軍の飛行機。
「空襲には太刀打ちできなかった」
カヤは言った。
「何とか、水中の空間移動を駆使して、一機だけこちらに引き摺り込んだけれど……この程度。私たちは全然、ワルシャワを守れなかった」
「カヤたちは悪くない」
モニカは辺りを見渡した。河原にはドイツ人の刺殺体がごろごろしていた。溺れ死にさせた兵も沢山いるという。
「陸軍が来た時は、無論、奮闘したけれど。でも数が多すぎた。それにあんな、何の罪もない市民まで虐殺するなんて」
カヤは何度も何度も溜息をつき、手で顔を覆った。
「戦いはまだ終わっていない。テロルが起こっている。ドイツ兵をまだ殺さなくては」
「……」
「モニカ、惨いことになるから、あまりこちらに来なくてもいいわよ」
「惨いことなら、もう見慣れました」
モニカはドイツ軍人の死体を見下ろして呟いた。胸にはナチス党員のバッジが虚しく光っている。
人がどうやって死ぬのか、この一ヶ月で嫌というほど見てきた。
「そうね」
カヤはモニカの肩を撫でた。
「……あちらでもものは食べなくちゃいけないけれど、こちらでもたんと食べなさい。そうしたらあなたは、多少撃たれたくらいでは、死ななくなるでしょう」
「そう……なの?」
「ええ。治癒の能力が高まるはず」
「ふうん。……このお魚、あっちにも持って帰れればいいのに」
自分だけお腹がいっぱいになるなんて、後ろめたかったし申し訳なかった。
でも、夢を行き来できるのはモニカ自身だけだ。他のものは世界の間を通れない。魚も例外ではない。
「あなたは優しい子」
カヤは愛しげに言った。
「どうか、生き延びて」
「……うん」
モニカはもちろん、ドム・シェロトの全員と生き延びたかったけれど、……何となくそれは無理な気がした。
ワルシャワ市民の大人も子どももこれだけ死んでいるのに、仲間たちだけが無事に生き残るなんて、そんな奇跡。
あったら、いいのだけれど。
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