30 柏木、初バイトに向かう 後編
「……お疲れ様。今日もよろしく」
「あ、紅さん! お願いしまっす!!」
俺はすれ違うスタッフがいる度に挨拶をしていく。
そんな俺の後ろを柏木がぴたりとついて歩き、物珍しそうに周りをきょろきょろと見渡していた。
モデルの撮影は、ただ撮られるだけが全てではない。
——仕事に呼ばれる。
——仕事を貰える。
それは、ただ綺麗だとか可愛いだけではダメだ。
綺麗、可愛いはモデルであれば当然であり、付加価値や相性があって初めて仕事が貰える。
挨拶ひとつとってしても、良い印象を与えるためには重要なことだ。
クールなキャラでやってはいるが、当たり前の行為は欠かすことのはない。
塩対応のキャラが受けることもあるが、それはテレビ向けに受けるだけであって、俺たちを支えている裏方の人達には受けが良くないのだ。
“この人と仕事をしたい”
“この人ならやりやすい”
そう思わさていかなければ生きてはいけない世界である。
雑誌を見てくれる人にも気に入られ、現場の人達に気に入られる……中々に大変だ。
だから、俺は現場での人間関係はとにかく気をつけている。
特に俺の場合、NGの仕事もあるから余計にだ。
俺は「紅さ〜ん」と呼ぶ声が聞こえ立ち止まり、声のする方を向く。
すると、スーツを着た男性が一人手を振りながら走ってきた。
いつも現場を忙しなく動き回るこの男性は、他のモデルのマネージャー“
仕事が一緒になることが多く、美咲さんを含めて仲がいい。
社会人二年目の人でとにかく一生懸命で、好感がもてる人物だ。
俺は、いつも通り微笑を浮かべた。
「……こんにちは壇さん。今日もよろしく」
「はい! こちらこそ……あれ? 美咲さんは?」
「……美咲さんは社長のところよ」
「あ〜、なるほど。だから俺に……。じゃあ紅さん、控室の準備ができてるので案内しますねっ!」
「……自分で向かうから大丈夫。それよりも何か急いでいるのでは? そちらを優先して」
「あ……」と何かを思い出したのか、慌てて時計を見る。
それから、申し訳なさそうな顔をした。
「そうなんですよ……じゃあお言葉に甘えまして、控室の場所だけお伝えしますね。本日は、三番の控室になります。時間になったら呼びますので、それまではお待ち下さい」
「……うん。よろしくね」
俺の返事に爽やかな笑みで返してくる。
いつも、こき使われてるイメージがあるけど見た目だけはイケメンだよなぁ。
俺がそんなことを考えていると、壇さんが俺をじーっと見てきた……いや、正確には俺を通じて後にいる人物を見ているみたいだ。
壇さんは不思議そうな顔をして、それから訊ねてきた。
「……初めて見る方ですよね? 新人のモデルさんはいらっしゃらない予定ですし……えっと紅さん、そちらの方は……?」
「……紹介が遅れたわね。彼女は柏木さん、今日から私のサポートをしてくれるの。例えばサイン会があればその引き剥がしとか、私のメイクを手伝いとかね」
「……あー、そうなんですか。紅さんもついになんですね〜。はぁ……朱里になんて言おう……」
「……どうしました?」
「いや、なんでもないです! それよりもよろしくお願いしますね、柏木さん!! わからないことがあったら何でも聞いてください!」
「あ、はい! ありがとうございます」
「じゃあ、それでは!」
丁寧に腰を折り慌ただしく去って行ってしまった。
相変わらず忙しない人だなぁ。
「なんか現場に来た途端、雰囲気が違うね……」
「……そんなことはない。いつも通りよ。それよりも控室に行きましょう」
「う、うん!」
◇◇◇
控室に入った俺はお茶を飲み、背をゆっくりと伸ばす。
柏木も緊張していたのだろう、そ 胸を撫で下ろしているようだ。
「……柏木さん。今日は宜しくお願いします。呼ばれるまではまでは、ここで待機しておきましよう」
「うん。とりあえずは美咲さんが来るまでよね?」
「……えぇ。それまではのんびり過ごしていいわ」
柏木は本来アルバイトという立場なら、敬語を使い接するべきだろう。
だが今回、柏木の立ち位置は“仲の良い友達”、“疲れや緊張を和らげるために”とまぁ、そんな名目の設定にしている。
だから、俺に普段接するような喋り方をしているわけだ。
友達といえど公私混同は避けるべきだが、美咲さんが言うにはこれがいいらしい。
多少ボロが出ても友達の前だから気が抜けたと言えるし、孤高の存在と紅がなるよりは人間味があった方がいいとか。
後は、アルバイトに捻じ込むための理由だったりとか……それが理由だ。
まぁ、後は初日で色々不都合が出そうな時はフォローすればいいだろう。
元より一蓮托生。
上手く支えるしかねぇな……。
色々と心配だけど……。
俺は内心でため息をつき、それから正面に座る柏木を見た。
さて、柏木に車の中で伝えれなかったことを言うか……。
俺はそわそわと落ち着かない様子の柏木の肩を叩く。「きゃっ」と可愛らしい声をあげ睨む柏木に、俺はスマホ突き出し指を刺した。
可愛く小首を傾げ、何を示しているかわからない様子の柏木に俺はメッセージを打って送信した。
柏木のスマホがピロンと音を立て画面が光る。
それに反応した柏木は、ぎこちない手つきで操作し、画面を表示した。
向かい合って座っているのに、互いがスマホに視線を落とす。
なんとも静かな雰囲気に場が包まれた。
『柏木、とりあえずここでもキャラは崩さない。言い忘れてたけど、どこで何があるかわからないから、帰るまでが仕事と思ってくれ』
『わかったわ。でも控室ぐらいは……』
『盗聴や盗撮があったら笑えないだろ? 一応、そういうのがないように美咲さんが調べてくれるんだが……念には念をな』
『大変なんだね』
『まぁな。人気が出るとそれだけアンチも増えるし、しょうがないんだよ』
『そっか……』
二人でいるのに無言でやりとりを続ける。
でもこれは仕方ないし、必要なことだ。
“紅”は人気がある。
仕事はたくさん舞い込むし、暇な時の方が少ないぐらい。
だが、人気が出れば出るほど危険は増えるし、ストレスを生む要因は増えていってしまう。
ストーカーに近いマスコミも現れるし、粗探しをする奴も嫌がらせをしてくる先輩も出てくる。
つまりは、敵がとにかく増えるのだ。
プライベートに思えるこの控室という空間も……正直、安全とは言えない。
だから、ここでも油断は出来ないのだ。
俺のメッセージを見た柏木は、控室に置いてある椅子の裏や植木鉢を見てゆく。
あくまで可能性を提示しただけだが、心配してくれているようだ。
『とりあえず今日は、壇さんが先に見ているだろうから大丈夫だぞ」
『そうなの?』
『壇さんは真面目だし、美咲さんの言うことは絶対に守るからやり切ってくれるさ』
『よかった』
俺は柏木から送られてきたメッセージに首を傾げた。
大した文章ではないのに、やけに時間が……。
『打つの遅くないか?』
俺がそうやって送ると、柏木は顔を赤くして俺をキッと鋭い目つきで睨みつけてきた。
そして、必死に何やら打とうとするが手が止まる。
諦めたのか、大きなため息をつき肩をがっくしと落とした。
「私、あんまり話せる友達がいないから……。それで色々と機会が少ないのよ」
「……大丈夫。私は友達だから。何かあったら遠慮なく言って」
「ありがと、紅さん」
柏木の肩に手を置き、微笑みかける。
それから片手でスマホにメッセージを打ち込んで送信した。
『このぼっち……』
『あんたもでしょ!!』
柏木は、頰を膨らませて不服そうにする。
その可愛らしい表情を見ていると、自然と顔が綻んでしまう。
まぁ、そうするとぷいっとそっぽを向かれてしまうわけだけど……。
『くーちゃん、今いいですか?』
控室のドアがノックされ、聴き慣れた声が聞こえてきた。
思ったより早い登場に和やかなムードが一転、緊張が走る。
……やっぱり来たか。
柏木は、俺を心配そうにら見つめ『どうする?』と首を傾げた。
まぁ、本来だったら招きたくないところだが……。
最初の試練として、乗り越えるしかないか。
俺は天を仰ぎ、目を瞑る。
それから、一回深呼吸をした。
よし……っ。
これで大丈夫。
「……問題ない。入っていいわよ」
俺がそう声を出すとゆっくりとドアが開き、そこにはブロンドの綺麗な髪をした女性の姿があった。
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