ある日の間幕 姉との邂逅 前編す
篠宮くんに先生のことを有耶無耶にされた次の日、私は彼の家の前に来ていた。
太陽は地平線へと沈み、群青色の空の遥彼方に薄らと茜色が見えている……そんな時間だ。
いつも通り、手伝いをしてたから遅くなったわね……。
この時間に訪問するのは失礼にあたる。
それはわかっていた。
だけど、昨日の彼の態度、それから先生の変わりようを見て、篠宮くんが間違いなく大きなことをしているに違いない——そう思った。
だから居てもたってもいられず、私は彼の家の前に来たわけである。
……恩義は絶対に返す。
持ちず持たれずの関係だけど、これは私なりの礼儀だ。
与えられるだけの人間にはなりたくない。
ちゃんと、返して胸を張って対等に接したいから……。
「あんたがなんと言っても、絶対に返してやるんだからねっ」
頰をぺちんと叩き、気合いを入れる。
この時間だったら逃げられないでしょ、そういった
よしっ。
私は呼び鈴に手を伸ば————寸前のところで手を引っ込めた。
そして、また伸ばしては引っ込める。
「……………………」
まるで呼び鈴が親の仇でもあるかのように、睨みつける。
当然、相手からは何も返ってこない。
呼び鈴にの上にあるカメラの無機質な瞳が、私を見ているだけであった。
「この私のバカチキン! 何やってんのよぉぉ〜……」
私はその場で肩を落とし、大きなため息をつく。
そう、実はこの行動を彼の家に来てから三十分ほど繰り返していた。
どっからどう見ても不審者よね、私……。
警察に通報されないのが不思議なくらいよ。
でも仕方ないのこれは……。
同世代の男子と関わるなんて、今までなかったし。
男子の家に訪ねるなんて、初めてだから……。
そう!
だから、これはただの緊張!!
ドキドキが治らないのも、未経験なことによる緊張よっ!
「変顔七変化の人、ウチになんか用ー?」
私が自問自答を繰り返していたせいで、いつの間に近づいていた人影に気がつかなかった。
突然、声をかけられる体がびくっと飛び跳ねる。
「ふーん、桜士と同じ制服……か。あんた誰?」
声を出せずにいると、その話かけてきた人物はもう一度口を開き、心なしか今度はさっきよりも声のトーンが下がった気がした。
……暗さでよく顔が見えない。
「えっと、柏木です。篠宮くんに用事がありまして……これからのことで、それから恩を返そうと」
「これから……恩……。あーなるほど。いいぜ、ちょっと入れよ」
手招きをする彼女について行き、ドアの前まで歩く。
すると、防犯用の灯りが輝き、前を歩く彼女にスポットライトを当てたようになった。
その露わになった姿が瞳に映り、私は絶句する。
数秒間、固まった後にようやく遅れて驚きの声が出た。
「く、紅さん!?」
そう、私の目の前には憧れの“紅”がいたのだ。
篠宮くんも“紅”であることは知っていた。
だけど、この人は私が初めて見た紅。
“奇跡の一枚”と言われ、鮮烈なデビューを果たした——まさにその人だった。
まさか憧れの人である本人がこうやってくるとは思ってもいない。
こ、心の準備が出来てないわよ……。
私は動悸が激しくなる胸を押さえて、深呼吸を繰り返す。
その様子を“紅”は呆れたように見ていた。
「あー、いいからいいから。そういうリアクションは、知ってて来たんだろ……?」
「知ってはいましたが……、まさか最初の——」
「…………」
『最初に見た紅』と言う前に手を力強く引かれ、家の中に半ば強引に連れ込まれた。
「柏木って言ったかぁ?」
「……はい」
「……その反応、桜士のこと知ってるんだよなぁ?」
「え、えっと……はい、そうです」
“紅”は頭を抱えて、ため息をつく。
それから天を仰ぎ、また再びため息をついた。
「……また、自分を追い詰めやがって」
「追い詰める?」
「いや、こっちの話だよ。つーか、早く上がれって」
「お邪魔します……」
私は促されるまま、家に上がりリビングに行く。
……結構、広い家。
だけど…………部屋がきたなっ!
食べかけのピザに、開いたままのお菓子。
ゴミ袋もいくつも置いてある……。
あいつ、マメな性格してそうで案外ズボラなのね……。
私はきょろきょろと家を眺めていると、
「かっかっか。汚いだろ〜? アタシは掃除しないし、桜士も仕事で忙しいからたまにしかやらねぇーんだよ。いつもまとめてブルドーザーかけるように、ドカッとってなぁ」
快活に笑う紅”は、ぐいっと男みたい豪快に炭酸の入ったグラスを飲む。
だけど、その喋り方と行動に違和感を感じた。
初めて“紅”を見た時の喋り方、それはやや物静かな感じの声。
まぁ、篠宮くんが演技が上手いから目の前にいる“紅”もそうである可能性は高い。
だから、そこから作ってたのかもしれないのだけど。
私は彼女の言葉に反応するように、笑みを浮かべ“紅”を見ると、何故だか眉間にシワを寄せ不機嫌そうにふんっと鼻を鳴らした。
……何を間違えたかな。
聞かないと。
「……あの、何か気に触ることが」
「いや、違うんだよ。あー、なんつうか……」
「どうしましたか?」
「その変な喋り方はやめてくんない? アタシに演技とか通じねぇーからさ」
「演技じゃ……」
見事に言い当てられ、私はたじろいだ。
“紅”はめんどくさそうに頭を掻き、嘆息した。
「なぁ、知ってるか? 演技って案外わかりやすいんだよ。上手い人であればあるほどなぁ」
「……それは、どういう?」
「まぁ、演技をしてる人つうのは、なるべく完璧に見せようとして“どうすれば人に良く伝わるか”をいの一番に考える。けど、それだとアタシからしたら計算された演技にしか見えねぇーんだよ」
「…………なるほど」
「かっかっか。図星だっただろ〜。だから、桜士と話すような砕けた話し方でいいからなぁ」
さっきみたいな男みたいなガサツな雰囲気ではなく、柔和で優しい笑みで私を見つめる。
その雰囲気の変わりように私は思わず苦笑した。
「わかった。わかったわよ……。姉弟揃って、すごいわね本当……」
「その喋り方の方がしっくり来るねぇ〜。ちなみに桜士は演技が得意でも、見破るのは苦手だなぁ。アイツは自分のことで手一杯だから。アタシみたいな暇人しかできねぇーよ」
「そうなんだ……。ねぇ、あなたは普通に話さないの?」
私の言葉に目を丸くし、大きな目を何度も瞬かせる。それから薄く笑い「悪いな」と一言だけ口にした。
何気なく言ってしまったけど……聞いてはダメだったみたい。
考えなしに、思ったことを口にしたらダメね……。
これは反省しないと。
なんとなく重たい空気が流れる。
彼女はそんな雰囲気を消すように手をパチンと叩き、改めて私の方を見て微笑みかけてきた。
「つーか、名乗ってくれよ。アタシは篠宮紅葉、よろしくなぁ」
「柏木天よ。天空の“天”って書いて、“そら”って読むの。よろしく……」
私に向かって、差し出されたてを握り返した。
つるつるで気持ちの良い手は、私でも嫉妬しそうなぐらいきめ細やかで“美”という言葉が当てはまるようなものだった。
……これが、今話題のモデル。
次元が違うわね……。
「同じ“天”なら、見た目だけだと“天使”の方が合う気するけどな〜。かっかっか〜!
「それはよく言われるわ。あまり言われて気持ちのいいものではないけどね」
「ちげぇねー。リアルで天使天使ってもてはやされたら、恥ずかしくて死ぬわ」
「ふんっ。わかってるじゃない。あんな呼ばれ方はごめんよ」
お互いに視線を交わす。
そこには奇妙な意思疎通があり、言葉で言い表せない……。そう、初めて感じる居心地の良さである。
これが——私と篠宮紅葉の本当の出会いとなった。
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