29 柏木、初バイトに向かう 前編


 あれから数日が経ち、柏木が初めて仕事場に同行する日となった。


 美咲さんが運転する車の後部座席に俺と柏木は座っている。

 いつもは、俺と美咲さんだけの車内でやたらと広く感じた車内が柏木ひとりいるだけで、なんだか少し狭く感じた。


 けど、その狭さが煩わしいとかそんなことはない。

 今あるのは、“心配”その一言に尽きる気持ち。


 何故なら、俺の隣に座る柏木の顔が青く『大丈夫、大丈夫よ私……』と呟いてしまうほど、ど緊張しているからだ。


 普段、仕事に緊張をしない俺でもその姿を見ているだけで妙にそわそわとした気持ちになってしまう……。

 落ち着いてくれればいいんだが……。



「柏木……。とりあえず、お茶でも飲むか?」

「う、うん! あ、あ、ありがとっ」



 俺がお茶を手渡すと、ぷるぷると手を震わせながら受け取り、少し溢しながら喉に流し込むようにして一気に飲み干した。

 そして、ゴホゴホと咽せてしまっている。


 ……大丈夫かよ、おい。

 自分が緊張しやすい体質だったら、対処方法を伝授出来そうなものだが……。

 残念ながら、そんな技術は持ち合わせていない。


 俺は、運転する美咲さんに助けを求めるように見た。

 バックミラーに映る美咲さんは、俺の視線に気がつくとウインクをして、『任せなさい!』と言いたげな誇らしげな表情でニヤリと笑った。


 流石は大人の女性。

 こういうことはやはり人生経験がものを言うのだろう。

 やはり頼って正解——



「は~い。リラックスリラックス~。天ちゃん”はーはーはー”のリズムよっ!」

「わ、わかりました!」

「おい、それだと吐きっぱなしだ」

「じゃあ、”ひーひーふー”ねっ」

「それも違う。ってか、柏木も馬鹿正直に信じるなよ……」



 ……正解ではなかったようだ。

 まぁ、美咲さんに頼むのもよく考えたらダメだよな。

 この人……すぐ暴走するし。


 俺は、美咲さんに言われた通りの呼吸法を繰り返す柏木にため息をつく。



「そんな緊張しなくても大丈夫だって、気楽な現場だからさ」

「そ、そうは言うけど。初バイトって緊張するのよ……。しかもモデルの現場って……あんたと違って私に鋼の精神があるわけじゃないんだから……」

「うんうん。わかるわ~。初めては緊張尽くしよねぇ~」

「美咲さんはちょっと黙ろうか?」



 俺が美咲さんを睨むと、舌をちょこんと出して「てへっ」と可愛らしい仕草をした。


 あざとい……あざと過ぎるぞ、二十八歳。

 それでも可愛いらしく、見えてしまうのは年齢の割に童顔だからだろう。


 ……言っている発言は、やたらとセクハラめいてはいるけど。

 まぁでも、気分を和ませようと口にしてくれてるんだろうから、変な悪ノリも責めれないんだけどね……。



「ま、柏木。とりあえず初日だからさ、美咲さんも無茶振りはしないと思うよ。だから気負いせずに行こうぜ。何かあったらフォローするからさ」

「そう……かな?」

「そうだよ天ちゃん! なんだったら働かなくてもお金を貢ぐから!!」

「いや、そこは働かせろよ。いくら美少女でも餌を撒き過ぎると、図に乗り始めるぞ」

「やっ!」

「我儘かっ!!」


 マジでツッコミが追い付かない。


 おい。

 ってか、柏木は何で顔を赤らめてんだよ。

 今の美咲さんの発言に顔を赤くする要素があったか!?


 俺は嘆息し、不安そうに俯く柏木を見る。



「残念な美咲さんは一旦おいて、とりあえず初日は俺れから離れずにいればいいよ」

「うん……ごめんね。迷惑はかけないようにするから……」

「気にすんな。そんなピンチになることもないからさ」



 自信なさげな様子は心配だが……。

 まぁ、俺の側にいて一日ついてくれば多少は慣れてくるだろう。

 美咲さんもいることだしね。


 細かいやりとりの取り決めは、後で決めるとして……。

 先にひとつ言っておかないとな。


「ただ、今日は笑うなよ……? 思い出し笑いとかは禁止だからな」

「今の格好のことで?」

「まぁな〜」



 今の俺はもう“紅”の姿になっている。


 衣装とかを着替えるのは、もちろん楽屋だ。

 それ以外の化粧やその他準備は、全て美咲さんがやってくれていて、楽屋には誰も入れないようにしている。


 まぁ、バレないように当然の処置だ。


 けど、女装は家で行なっているわけで、柏木と今日対面した時は既に“紅”になりきっていた。

 正体を知っている柏木からしたら、男の姿を思い出して笑ってしまうかもしれない。


 それは仕方のないこと。

『こいつが女装しているんだよなぁ』

 そんなことを考えてしまっては、顔に出てしまうこともあるかもしれない。


 だから今、釘を刺したわけである。



「笑わないわよ。本当に見分けがつかないって感心してるぐらいだし」



 俺の忠告を受けた柏木は、少しむっとしてそう返してきた。

 いつもの気が強い柏木に戻ってきたようである。



「そっか。ならいいけど、いつもとのギャップがおかしくなったとかは止めてくれよ」

「わかってるって! もう少し信用しなさいよ」

「いや〜。柏木って案外ポンコツなところが多いから、つい噴き出して笑いそうで心配でさぁ」

「ポンコツってあんたねぇ……。そもそも……頑張ってる人を笑えるわけないでしょ……」

「ん? 何か言ったか?」

「何でもない!」



 更に不機嫌そうに頰を膨らまし、そっぽを向いてしまった。

 ポンコツは言いすぎたみたいだな……いや、その前になんだか違和感があるような気が——もしかして?



「なぁ美咲さん……」



 俺は運転する美咲さんに耳元で囁いた。

 すると、美咲さんはいつも通りのニコニコとした屈託のない笑みを浮かべてくる。



「なぁーに? 私を口説こうなんて簡単よー?」

「口説かないよ。ってか、せめて“百年早い”とか言ってくれ。色々と不安になるから……」

「ははは! めんごめんご〜」

「……柏木に何か余計なこと話してないよな?」

「何も話してないよっ。私と天ちゃんは、親睦を深めにラーメンを食べに行ったぐらい!」

「……本当かよ」

「ほんとほんと〜。ねっ! 天ちゃん?」



 窓の外をぼーっと眺めていた柏木は、急に話しかけられて体をびくっと震わせる。

 それが恥ずかしかったのだろう、コホンと可愛く咳払いをした。



「えっと、美咲さんが言う通りラーメンに行ったわよ」

「夜にラーメンね〜」

「そうよ、悪い?」

「悪くないけど、太りそうだよなぁ。ちなみに何を食べたんだよ」

「ちゃんとその分、運動してるから大丈夫よ。それで、食べたのは一応、シンプルな豚骨ラーメンで、美咲さんは“フードファイター御用達の特大ラーメン”をペロリと……」

「あ、もうっ! 言わないでよ天ちゃん!」



 美咲さんが慌てたせいで、車が若干ぐらついた。

 その揺れのせいで柏木が俺の肩にもたれかかるような姿勢になる。


 それにしてもそんなラーメンを食べたのか。

 美咲さんの体のどこにそれが収まるんだよ……。


 あー、胸か。

 自己主張の激しいもんな、美咲さんって。

 まぁ……性格も含めてね。


 俺の視線が美咲さんの胸部に動いていたのを見ていたのだろう。

 柏木が俺の頬を突いてきた。



「ねぇ。なんだか視線が怪しい気がするんだけど?」

「怪しいって、俺は単なる事実確認をだなぁ」

「何が事実確認よ。やだやだ、男ってすぐにそういう目で女性を見るんだから。色情魔、性獣……」

「偏見だし、酷い言い草だな」



 確かに見てはいたが、柏木が言うような邪な気持ちはない。

 それは断言できる。


 まぁ、一般的に考えたらそう思われても仕方ないけどな。



「ってか、女性の下着や胸ぐらいで俺は動揺しねーし。興奮することもないよ、俺は」

「……へー」

「うわー……全く信じてないな、おい」



 疑うような目つきで俺を見返してくる。

 俺は頭を掻き、ため息をついた。



「よく考えてみろよ。俺は、いつもモデルの撮影現場で見慣れてるから興奮もしなくなる。俺からしたら、仕事における日常の光景だからな」

「なるほど……。それは言えてるかも」

「興奮しないだなんて……。若いのに不能になっちゃったのね、桜士ちゃん」

「フノウって?」

「柏木は気にしなくていい。美咲さんはいらん口を挟まないで運転に集中してくれ……」

「はいは~い!」



 美咲さん、いい加減運転に集中してくれ。

 それと下ネタは禁止だ……。

 つーか、そんなナチュラルにぶっ込んでいると、いずれ訴えられても擁護できねぇからな……。


 まぁ、美咲さんに言っても無駄だろうけど。


 俺がそんなことを考えていると、柏木が再び頰を突いてきた。



「ねぇ篠宮くん。手っ取り早くそれを証明して見せてよ」

「証明って、CTでも使って脳内を確認してみるのか?」

「ううん。そんな精密機器用意するよりもっと簡単だから」

「え……?」



 柏木が俺の胸に耳を当て、目を閉じる。

 ぴたっとくっつき、俺が逃げれないようにホールドしているようだ。


 彼女の身体から熱が伝わり、お腹のあたりに何やら柔らかいものが当たっている。



「おい、何してるんだよ」

「心臓の音を聞けば、一目瞭然でしょ? あんたって演技上手いけど、心音までは隠せないんだからっ」

「だからってお前なぁ……」

「ふっふっふ〜! これで誤魔化せないわよ〜」



 いや、今みたいな行動でしてやったりみたいな顔をされても、的外れだと思うんだけど。

 ってか、その前に——



「得意げなところ悪いが……自分の恰好を理解してるか?」

「へ……?」



 間の抜けたような声が車内に響く。


 今の状態を軽く整理しよう。


 狭い車内。

 抱きつくような姿勢をとる二人。

 明らかに体を押し当てているような体勢。


 うん。

 外から見られたら、完璧にいちゃついている百合にしか見えない。



「や~ん! 天ちゃんったら大胆だねっ!!」



 運転する美咲さんから息の荒い興奮した声が発せられる。

 その言葉でようやく自分の行動の不味さに気がついた柏木は、顔を紅潮させ腕をバタつかせて俺からすぐに離れた。



「ち、違うの!! これは、本当に心臓の音を聞いて嘘を暴こうとしただけで、触れたいとかくっつきたいとか、そんな他意はないの! 本当に違うんだからっ。か、か、勘違いしないでよねっ!!」

「なんで柏木はこうも動揺に弱いんだよ……。その言い方だとツンデレが広まったご時世では、誤った捉え方をみんながするからな?」

「ね~。でも天ちゃんのベタなツンデレは、見ているだけで潤っちゃう! ご飯が何杯でもいけるねっ」

「いやいや、それは美咲さんだけだから」

「そんなことないわよ~。美少女飯は最高だぜ!!」



 ぐへへ〜と、美人からは発せられてはいけない邪悪な笑い声が聞こえてくる。

 相変わらず、残念な人だ。


 俺は右往左往、慌てる柏木を車内になった団扇で「落ち着けよ」と言いながら扇ぐ。

 これで冷めればいいんだが、全くその様子が見えず余計に赤くなってしまった。


 そんな柏木に追い討ちをかけるように、美咲さんが残念な提案をする。



「だから天ちゃん、もう一回だけ! 少しだけ、少しだけでいいからぁ~」

「頼み方が怪しいぞ、美咲さん……。柏木も変なツンデレ口調をもう披露しなくていいからなぁー」

「や! もっと見たい!!」

「この駄々っ子!」

「だから、私はツンデレじゃないって言ってるでしょ~!!!」



 真っ赤になって叫ぶ柏木。

 緊張はなくなったようだが……。


 現場についた頃には、げっそりしていたのは言うまでもないことである。

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