31 紅と朱


 控室のドアを開け、目の前に登場したのは見慣れた同僚の姿。

 しおらしく、お淑やかで可愛らしい……人畜無害な雰囲気が彼女にはある。


 だが、そんな彼女は俺にとって一番気が抜かない相手だ。


 俺は緊張を毛ほども出さないように表情を作り、いつも通りの優しい笑みを彼女に向けた。



「……いらっしゃい朱里」

「くーちゃんお疲れ様です。あの、突然ごめんなさい!」

「……別に大丈夫よ。それでどうかしたの?」

「仕事前にお話しをしたくて……。くーちゃんと話すと落ち着きますので……」



 「えへへ」と照れ笑いをする朱里。


 俺は横で固まっている柏木を横目で見ると、急な出来事に困惑しているのか、柏木の表情が強張っていた。


 朱里が柏木の存在に気付き、微笑みかける。

 すると柏木は曖昧な笑み……いや、引きつった笑みで笑い返した。


 有名人と出会った緊張もあるだろうが……。

 それよりも、おそらく全てを見透かしたような澄んだ瞳に見つめられ、臆しているのもあるかもしれないなぁ。


 目力強いもんな、朱里って……。



 彼女の名前は竹木田朱里たけきだしゅり

 紅と同じ事務所に所属しているモデル兼タレントである。

 やや天然が入ったような思い込みの強さと可愛らしい見た目が老若男女、幅広い層で人気があり、“使”と評されることがしばしばある……まぁ、そんな人物だ。


 クォーターということもあり、ブロンドの髪が似合う顔立ちをしている。

 背は比較的高い方で、全体的にすらっと……つまりはスレンダーな体型だ。


 家は大層なお金持ちらしく、現場にはいつもお付きの人が来るぐらいだ。

 口調はいつも丁寧、そして誰にでも物腰柔らかな態度で接することから現場でもとにかく評価が高い。

 つまり、言葉遣いや容姿もまさに絵に描いたようなお嬢様なわけだ。


 そして、これが最も重要なことだが……。


 俺達の紅と同じ赤系統の名前を持つことから、紅と朱里で『ルージュ』というコンビで仕事を共にすることが多い。

 つまりは、一番バレる可能性が高い相手なのだ。


 そんな人物だから俺は最も警戒している。

 だけど、俺が警戒しているのは


 何故かと言うと——



「く〜ちゃん! 会いたかったです!」



 朱里はそう言うと駆け寄ってきて、勢いそのままに俺へと抱き着いてきた。

 俺は正面にならないように身を躱し、代わりに腕に抱き着き頭をすりすりと擦らせてくる。


 いつものことだが、髪が当たってくすぐったいな……。



「……ちょ、ちょっと朱里。いつも急に抱き着かないでって言ったでしょ?」

「嫌です。今日は、仕事前にくーちゃんから元気をもらうと決めているんですから」

「……はぁ。またいつものなのね……?」

「えへへ〜、またです〜」



 朱里は恍惚の表情を浮かべて、実に緩みった顔で俺に体を預けてくる。

 その姿は、戯れつく犬を彷彿とさせた。


 髪の色的にはゴールデ◯レトリバーだよな……。

 ってか、いつにも増して抱きつく力が強くない。



「……え?」と呟いた柏木は、口をぽかーんと開け、朱里の様子に啞然とした。

 持っていたペットボトルが手から零れ落ち、コロコロと悲しく転がっている。


 その様子にも動じた様子のない朱里は、変わらず俺の腕をホールド中だ。



 まぁ柏木、お前のその反応……俺にはよくわかる。


 テレビで見る朱里は“落ち着いた清楚な人物”って感じで、こんな隙を見せてはくれない。

 けど、それはあくまで大衆向けの性格で、本来はこういう人懐っこい性格なのだ。


 正面から抱き着かれると諸々が崩れる恐れがあるので、毎回躱すのが正直なところ大変である。

 人目がないところでは、いつもこれなので『バレるのではいか?』と気が気でない。



「……全く。人懐っこいのは結構だけど。誰にでもやってはダメよ?」

「くーちゃん以外にはやりませんから大丈夫です。くーちゃんも遠慮せずに、私を抱きしめてもいいんですよ? いつも私ばかりですし」

「……やめとくわ。そういうハグは、いずれ出来た思い人にやりなさい」

「え〜。私はくーちゃん以外は嫌です」



 朱里は駄々をこねる子供のように「むぅ」と頰を膨らまし、不服そうな態度をとった。


 あざといとも言える可愛らしい仕草に心を揺さぶられ、つい許してしまいそうになる……。

 けど俺はそれをぐっと堪え、やれやれと肩を竦めてみせた。



「……そういう発言は誤解を生むから控えた方がいいわよ。百合とか言われても不本意じゃない?」

「別に構いません。ひとつ誤解を解いておくと、私は百合ではないですよ? 女性が好きというより、くーちゃんが好きなだけですので」

「……はぁ。それは立派な百合と言えるじゃないの。ちなみに男性は——」

「男の人は、みんな下品で邪な視線し向けてくるのでお断りです。くーちゃんもそう思いますよね?」

「……ノーコメントよ」

「むぅぅ、その回答はずるいです! はぐらかさないでください〜」



 朱里の偏見に苦笑いしか出来ない。

 ここまで朱里が紅にぞっこんなのは、簡単な理由がある。


 朱里は同い年だが仕事上は後輩で、新人の時から紅として面倒を見ていた。

 そして、やや世間知らずなところがある朱里を手助けしている内に……まぁ、今みたいになってしまったというわけだ。


 今では、私生活の悩みから仕事の悩みまでよく相談をされるようになり、俺からしたら妹みたいな存在になっている。


 ま、妹にしてはやたらと距離が近いし、紅のことになると盲目的なところがあるのは……やや不安だけど。



「……朱里、それは?」



 俺は、話題を変えるために朱里の耳につけてあるアクセサリーを指差す。

 それに反応した朱里は、花が咲いたような明るい笑顔になり、またぐいっと俺に体を寄せてきた。



「気が付きましたか!? えへへ〜、もっとよく見てください」

「……青いイヤリング?」

「はい! 最近のお気に入りなんです。えっと、どうですか……?」

「……ふふ。ほんと、似合ってるわ。そうね、朱里の瞳と一緒で綺麗よ」

「えへへ〜、ありがとうございます〜」



『撫でて撫でて!』と強請るように頭を差し出す朱里を俺は仕方なく撫でる。

 とりあえず、これで落ち着いてくれればいいんだが……。


 我に返った柏木の視線がさっきから痛いから、このやりとりを終わりにしないと後々が面倒なことになる。


 俺の願いが通じたのか、朱里が俺から一歩離れて綺麗な姿勢で立つ。

 それから、俺の背後を窺うような視線を向けた。



「ところで、さっきから気になっていましたが、そちらの方は?」

「……彼女は柏木さん。私の友人よ」

「え、友人……ですか?」

「……えぇ、そうよ。アルバイトとして私の手伝いに来てもらってるの」

「そうだったんですか……」



 柏木の前に移動し、丁寧に腰を折る。

 三十度ぴったりなのでは?

 と思えるほど、綺麗な体勢だ。



「初めまして柏木さん。申し遅れましたが、朱里です」

「か、柏木天です! 今日は宜しくお願いします」



 柏木も慌てて挨拶を返し、ぺこりと頭を下げる。

 それを確認した朱里が薄く笑い、目を伏せた。



「簡単に自己紹介をします。私はくーちゃんの相棒です。苦楽を共にして、喜びを分かち合った友人より深い仲です。それはもう、追随を許さない程なんですよ」

「じゃあ次は私ですね。私は、紅さんの友人です。敢えて付け加えるなら、共有した関係……。友人以上ってところですね」



 お互いに笑い合い、それから二人は笑顔で握手を交わした。


 うんうん。

 流石は女子、ものの数分で仲良くなっているなぁ。

 俺には理解の出来ない生態だが、こういう女子特有の逞しさは羨ましく思うこともある。


 ま、ここからの流れは定番で、満面の笑みをお互い浮かべてこれから談笑ってところだろう。


 …………あれ?


 俺は、握手したまま動かない二人に違和感を覚えた。


 しかも、何故だろう。

 エアコンが効いてるわけでもないのに心なしか寒気が……。

 笑顔なのに、お互いが火花を散らしている気がする。


 ……面倒ごとは勘弁願いたいんだけどな。

 俺は、額に手を当て「はぁ……」とため息をついた。




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