38 篠宮桜士の誤算


 この出来事は、予想だにしなかった。

 まさに晴天の霹靂……。


 順調な時ほど気を付けないといけないのに、それを戒めるような事態になってしまっている。


 そんな黙り込む俺を葛城は、冷めた表情で見ていた。



「おや? その表情、聞いていませんでしたか 確かに水着を着ていませんし……」

「……聞いてません。それに私は水着をNGとしていたと思いますが……」



 そう、俺は水着撮影をNGにしていた。


 露出が多いと、それだけバレる可能性がある。

 当然、隠しきれないものもあるし、受けるわけにいかない仕事だった。


 家の事情を知る美咲さんは勿論わかっていて、この手の話は全て断ってきている。


 それなのに、スケジュールにない水着撮影が何故か入っている。

 俺にとってこの仕事は、『はい、そうですか』と到底受け入れられる話ではなかった。


 俺の反応に葛城は、相変わらず冷めた目で俺を見つめ、それからやれやれと肩を竦めた。



「それは困りました。私は問題ないと聞いていましたので……。全く、あなたのマネージャーには仕事をしてもらわないと困りますね。伝えたことが伝わらないのは、働く人間として自覚が足りないと言わざるを得ません」

「……そんなことはありません。美咲さんはよくやってくれています」

「うーん。そうは言いますけどね。結果が物語っているのですよ」

「……結果、ですか?」

「そうですよ。仮に紅君が言う通り聞いてないのであれば、彼女は仕事をバッティングしたことになります。そうなると仕事を反故にされた会社とは、今後仕事がし難くなるでしょう」

「……美咲さんはどうなってしまいますか?」

「そうですね。会社に大幅な不利益をもたらすことになれば……良くて左遷。悪ければ、自主的に辞めてもらうことになるかもしれません」

「……そんな」



 スタジオにいる人物を見渡すと、見慣れないカメラマンにそれから、名前だけは見たことのある雑誌の編集者……。

 今まで仕事をしたことのない人が多くいた。


 勿論、いつも仕事を共にしている顔馴染みもいるが……。

 それ以上に多くの人がこの場に来ている。


 つまりこれだけ人がいるということは……、この仕事はそれだけ多くの“金”が動いているということに他ならない。


 それを俺の一存で断るというのは——事実上の

 そうなってしまう未来の想像は、誰の目から見ても明らかだ。



「仕事を自分の好き嫌いで選ぶなんて痴がましいことです。社会人は言われた仕事をまずはこなさなくてはなりません。社会の歯車である以上、飲み込まなくてはいけないのですよ」

「……別に好き嫌いをしているわけではないわ」

「そうかい? ならいいですが。これは社運を賭けた一大プロジェクトの一つです。失敗するわけにはいきませんので」

「……ですが、私は——」

「仕事を断るのは、相応の覚悟を持ってください。どうなってしまうかは————言わなくてもわかりますよね」



 ……完璧にやられた。


 いつも冷めた表情をしている葛城が初めて笑った。

 人を見下すような、ほくそ笑んだ感じで……。


 その表情で俺は——今回の事態がをようやく察した。


 気づくには遅かった。

 いや、その兆候を感じさせないように密かにこの仕事を進めていたのだろう。


 美咲さんをこの場に来れないようにしたのも、葛城の仕業なのかもしれない。


 ……断ったら、仕事が今後回してもらえなくなるかもしれない。

 この仕事はピンキリだ。


 替えはすぐ現れるし、世代交代も早い。

 売れてる時に、どれだけ根付くことが出来るか……それに全てがかかっているような業界だ。


 だから、俺のとる行動べきは……。

 この事態をなんとか逃れるしかない。


 しかも、美咲さんや紅葉への被害が最小限になるようにして……。

 ……無理難題もいいところじゃねぇか。



「沈黙は了承と受け取りましょう。では、撮影の準備をしてください。そこのアルバイト君も早く水着を取ってきてくださいね。ほら、さっさと行動を始め——」

「……いいんですか?」

「おや? 何がですか?」

「……こんなことして。どうなっても知りませんよ」

「ははっ。“こんなこと”ってなんのことだか、さっぱりわかりませんが……。僕は楽しみにしてますよ」



「それでは」と踵を返して去ってゆく。

 精一杯の強がりをして、引いてくれることを願ったが……。

 この様子じゃ、意味は無さそうだな。


 俺は頭に手を当て、ため息をつく。

 すると柏木が俺の横にしゃがみ込み、心配そうに見つめてきた。



「ねぇ、大丈夫なの? 流石に無理言ってでも断った方が……」

「……それは出来ないのよ」



 そう、これにはかなりの金がかかっている。


 美咲さんに普段から迷惑をかけているからこそ、彼女の立場が危うくなることは俺には出来ない。


 ここまで人がいなかったら絶対にそんな俺が「聞いていない」の一言で済ませたいが……。

 まぁ、これも加味した上で外堀りを埋めてきたのだろう……。


 性格悪いぞ、あの野郎……。

 俺は内心で舌打ちをした。


 断りたいけど断れない。

 何故ならこの業界は、使う人間と使われる人間のマッチング的な部分がある。

 だから、使いづらい人間は淘汰されてゆくのは自然の流れなわけだ。


 これを断ったら、美咲さんが今までしてくれたことが水の泡になる可能性もある。

 それに紅葉が描いた夢を俺のせいで壊すことになってしまう。


 それも……俺がバレるという結果で。


 くそ……っ!

 俺がわけにはいかないのに……。

 俺が守ると決めたのに……。


 


 唇を噛み、ほのかに鉄の味が口の中に広がった。



「呼ぶわけにはいかないの?」

「……それも出来ないわ」

「なんで?」

「…………」



 俺は、無言で首を横に振った。


 紅葉を呼ぶことはできない。

 姉をこの場に呼ぶということは、過去のトラウマを思い出させてしまうことに繋がる。


 それは、紅葉を受け入れてくれる男性が現れるまで隠さなくてはいけないことだ。

 無闇矢鱈に広めていいものではない。



「……とりあえず時間を稼ぐ。伸びに伸びて延期になれば、打てる策もあるから。このままでは、準備が足りなさ過ぎるわ」

「わかった……。私が少しでも時間を稼いでみる」

「……頼むわね」



 これは、俺の誤算だ。

 気を緩めた俺の誤算……。


 俺は天を仰ぎ、ふぅと息を吐く。

 いつも薄暗いスタジオが、いつにも増して暗く見えた。



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