3 薄化粧
本宅で巫女装束に着替え、今度こそは社務所へ向かおうとした時だった。
「繭ちゃん、ちょっと顔を貸して?」
「顔、ですか?」
繭子に声を掛けたのは、基経の叔母。確か名は……佐和子さんか道子さん。
今日は巫女装束ではなく、白い割烹着姿だった。下には藤色の着物がちらりと見える。
「せっかくお正月なんだから、ちょっと綺麗にしてあげるわ」
「綺麗に、ですか?」
「といっても、お肌はきれいだから……」
佐和子か道子はしげしげと、繭子の顔を覗き込む。
「産毛を剃って、眉毛を整えるくらいで十分ね」
「いえいえ、わたしなんて何をしても……」
じりじりと後ずさりするが、佐和子か道子は構わず繭子の肩を抱いた。
「まあまあ、道子さんにお任せあれ」
あ、道子さんの方だった。
ほっそりしているのが道子さん。少々恰幅がいいのが佐和子さん。と、繭子はこっそり記憶に留めることにした。
* * *
何だか、顔がすうすうする……。
これまで顔に剃刀なんて当てたことがなかった気がする。
確かに産毛を剃って貰ったら、肌が一皮剥けたように白くなった。眉毛も整えてもらったら、なんとなく目元がすっきりした……気がする。
乾燥するからと、乳液を塗って貰ったから、肌がペトペトする。髪にも椿油を馴染ませ、艶やかだ。
巫女は素肌でいるのが本来ではあるが、あまりにも唇が青いので、最後にほんのりと口紅をのせられた。
寒さで真っ青になって震える巫女なんで、新年早々縁起悪そうだ。だから道子も口紅を勧めたのだろう。
とはいえ、お化粧などしたこともないから、何となく気恥ずかしい。
「おはようございます」
社務所に着くと、巫女装束に身を包んだ佐和子が待ち構えていた。
「おはよう、繭子ちゃん。今年もよろしくね」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いいたします」
慌ただしく新年の挨拶を交わすと、両手に抱えるくらいの木箱を手渡される。
「さっそくだけど、これを持って授与所に行ってくれる?」
「はい、わかりました」
木箱には、空色と薄桃色の御守りが詰まっていた。どうやら縁結びの御守りは、いまだに人気があるらしい。
「仕事の采配は基経くんに任せているから。基経くんに何をすればいいかは聞いてね」
「はい」
「あら、前より綺麗になった?」
ふと気付いたように佐和子が顔を覗き込む。
「あ……先ほど道子さんに」
「ああ道子ね。昔から好きなのよ、お化粧とかお洒落とか。でも戦時中はろくにお洒落もできなかったから鬱憤が溜まっていたのよ。今は自分よりも、回りに色々するのが楽しいみたいだから、付き合ってあげてね」
「は、はい」
佐和子の饒舌ぶりに、繭子はおっかなびっくり、こくこくと頷く。
「あの子もうかうかしていられないわね。それにしても……ああ、若い子はお肌もお餅みたいで羨ましいわあ。はい、いってらっしゃい!」
佐和子にポンと背を叩かれ、木箱を抱えて社務所を出る。
綺麗だなんて、生まれて初めて言われたな……。
他人事のように、ぼんやりと考える。
背も高く、棒切れみたいに痩せた繭子を可愛いなんて言う人はいなかった。大きくて頑丈そうだとは、昔から何度も言われたことはあったけれど。
きっと佐和子だって、お世辞を言ってくれたに過ぎない。
うん、忘れよう。取り敢えず口紅のことは、忘れよう。へんに意識するだけ滑稽だ。
繭子は自分に言い聞かせると、深呼吸をする。
「……よし」
気持ちを入れ替え、授与所へ向かおうとするが、お詣りを終えた人たちが流れていくので、そこそこ混み合っていた。
ただ、今は白衣と緋袴姿のせいもあり、自然と道を開けて貰えたのは助かった。
授与所に近付くと、基経がひとりでお札や御守りを求める参拝者に対応している姿が見えた。
これでは猫の手も借りたくなるのも無理はない。人手が圧倒的に足りないのだ。大晦日だって忙しいはずなのに、基経がわざわざ手伝いを求めにやってきたのも頷ける。
今は、まだそこまでの人出ではないが、昼近くにもなれば、ひとりでは手が回らないだろう。授与所へ急ごうとした時だった。
「……繭子?」
聞き覚えのある声に、繭子は足を止めた。
「……おう」
振り返った先にいたのは、信夫だった。熊手やお札と破魔矢と、とにかく色々買い込んだようだ。両手いっぱいに荷物を抱えていた。
「信ちゃん……まだいたの?」
「まだってなんだよ。うちの店が繁盛するように、色々買っていたんだよ。神社に貢献したと思ってありがたく思え」
「はいはい。そうだ、お神酒か甘酒も振る舞っているから、いただいて帰ったら?」
「ああ、そうだな……」
信夫は話をしながらも、巫女装束と繭子の顔を見ては目をそらしたりと、どうにも落ち着かない。
どうせ、よくお前の背丈に合う衣装があったものだとか、ろくなことしか言われないのだ。何か言われる前に退散した方がよさそうだ。
「じゃあ、気をつけて」
「え、ああ……お、おう」
戸惑う信夫を余所に、繭子は脇目も振らず授与所へ向かった。
* * *
「すみません、遅くなりました」
参拝者の対応に大わらわな基経は、背を向けたまま隣の座蒲団をポンポンと叩く。
恐らくここに座れということだろう。そこには膝掛けと懐炉もちゃんと用意されていた。繭子が寒がりだということを覚えていたらしい。
「おはようございます。お隣失礼します」
「おはようございます。すみませんが、御守りの補充をお願いします」
「はい」
佐和子に持たされた御守りを、せっせと補充していると、何気なくこちらを向いた基経が動きを止めた。
「もしかして、お守りの配置、違いましたか?」
何か言いたげな視線に、察した繭子が訊ねるが。
「…………」
「あの、基経さん?」
「……」
何も言わない。
どうしたのだろう。疑問に思ったが。
「すいません! 安産祈願の御守りは、どれですか?」
「はい、こちらです」
御守りを求める声に、基経は何事もなかったように再び動き出す。
その後は忙しくて、繭子もそのことをすっかり忘れていた。私語を交わすこともなく、昼頃までひたすら参拝者の対応に追われていた。
* * *
「うちの叔母の仕業ですね」
束の間、客足が途絶えた時だった。唐突に基経が発した言葉に、繭子は首を傾げる。
「仕業とは?」
「お化粧のことです」
一瞬、何のことだかわからなかったが、今朝道子に軽く化粧を施されたことを思い出す。
「ああ……道子さんがしてくださいました」
「なるほど。化けてきたわけですね」
「……人を化け物みたいに言わないでください」
うんうんと納得したように頷く基経に、冷やかな目を向ける。
佐和子は褒めてくれたが、本来の周囲の反応がこんなものだろう。
実は、ちょっと期待していたようだ。その証拠に、基経の言葉に落胆している自分がいることに気付き、情けない気持ちになってきた。
慣れないことはするものじゃないわ……。
繭子はそっと溜め息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます