15 黄昏時の銀杏の下で

 黄昏時を迎えた境内は、思っていた以上に暗かった。

 周囲を生垣に囲まれ、御神木である夫婦銀杏が落と陰のせいだろう。以前は初詣に訪れる参拝者のために灯されていた明かりも、今は無い。


「……暗いですね」

「明かりを用意しましょうか」

「いいえ、平気です」


 夫婦銀杏まで、さほどの距離もない。まだ僅かだが陽は残っているから、灯りは必要ないだろう。


「わかりました。では行きましょうか」


 はい、と手を差し出され、繭子は首を傾げる。

 何か渡せ、という意味だろうか。わざわざ持ってもらうような手荷物もない。


「あの、特に持っていただくものはありませんが……」


 繭子がそう言うと、基経は苦笑する。


「暗くて足元が見えにくいので、よかったら私の手を支えにしてください。玉砂利は足を取られやすいですから」


 確かにちょっとした段差は暗くてわかりにくい。でも子供ではないのだから、手を引いて貰わなくても平気だ。


 でも……やっぱり怖い。


 夫婦銀杏の辺りは、一層暗い。あの時、目にした女性の姿を思い出すだけで、心臓が縮むような息苦しさを覚える。


 魔が差した、藁にも縋る思い、とでも言うのだろうか。差し出された基経の手が、なんだかとても頼もしいように感じて、おそるおそる繭子は自らの手を伸ばす。


 じっと待つ基経の手のひらにたどり着くと、そっと指先だけ重ねた。


 冷たい。冷え症の繭子が冷たいと感じるくらいなのだからよっぽどだ。


「では、行きましょうか」


 そう告げると基経の手は、繭子の手をすっぽりと握り込んだ。


「っ!」

 一瞬、手の冷たさと力強さに驚き、肩が跳ねる。

「しっかり掴まらないと転びますよ」

「は、はい」


 肉の薄い、骨張った手のひらは、父とも弟たちとも違う。

 幼い頃はともかく、この歳になって家族でもない男性と手を繋ぐだなんて、初めてのことだと気が付いた。


 ええと……これは…………。 


 幽霊や暗闇が怖いという意識よりも、繋がれた手の感触に気持ちが持って行かれてしまう。


 嫌なら離せばいい話ではあるが、こともあろうに嫌ではなかった。繭子の手の熱が移ったのか、ほのかに温かい基経の手は思いの他心地いい。


 けれど、この状況は一体何なのだろう。年上の基経から見れば、学生の繭子など小さな子供と同じなのかもしれないが。


「あっ!」


 考えごとをしていたせいで、玉砂利に足を取られてしまう。危うく転びそうになるが、咄嗟に基経が支えてくれた。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 頭の上から聴こえる声の近さに、頬に熱が集まるのを自覚する。


 これは……結構恥ずかしい状況な気がする。


「あの」


 手を離してくださいと、告げようとした時だった。

 基経が息を呑むのと同時に、繋いだ手に力が籠るのを感じた。


 まさか。


 基経の視線をたどり、肩越しに見えたのは夫婦銀杏。

 そして、ぼんやりと白く浮かぶ人の姿。

 目を凝らすと、その姿は次第にはっきりとしてくる。


 華奢な身体に似合わない大きく張ったお腹。

 薄い浴衣の裾から覗く白い素足。

 綺麗に編まれた、腰まで伸びる黒い髪。


 繭子たちの視線に気付いたかのように、ゆっくりとこちらを向いた。

 少しやつれた顔をしているが、儚げで綺麗な人だった。


 この人は、あの時の……。


 繭子は息をするのも忘れて、目の前の光景に釘付けになっていた。

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