16 怪異との対峙、そして

 やっぱり、いたんだ……。


 綺麗で、物悲しそうで。何か言いたげな眼差し。彼女は何が悲しいのだろう。何を伝えたいのだろう?


 子供の頃、妊婦の物の怪の話を聞いたことがある。まさか、彼女はその類いのモノなのだろうか。


 ふと、彷徨っていた彼女の視線が、焦点が一点に定まる。その眼はぽっかりと開いた穴のようで、ぞくりと寒気が、寒さとは違う何かが肌を撫でる。


 こちらをを……見ている?


 その眼はまるで深い穴のようで。吸い込まれそうな真っ暗な闇が覗いていた。


 どうして、そんな目で見るの……。


 急に、恐れに似た気持ちが、足元から這い上がってくる。


 目を合わせてはいけない。頭の中で警鐘が鳴り響く。だけど、目が離せない。


 膝ががくがくと震え始める。無意識のうちに、基経の手を、袖を、強く握り締めていた。


「……見えますか?」

 

 基経の低い声が耳元を掠める。その声に我に返っる。

 基経には見えないのだろうか。

 いや、そんなはずはない。彼の視線も、また銀杏の下に釘付けであるのだから。


「見え……ます」


 繭子は恐る恐る口を開いた。ひどく掠れた声だった。


「何が、見えますか?」

「に、んぷさん……きれいな人、です……」


 それを聞いた基経は微かに笑う。それは安堵に似た笑みだった。


 彼の目には、違うものが見えているのだろうか。

 彼の目には、何が見えているのだろうか。

 もし同じものが見えているならば、この人は、彼にとって一体何なのだろうか。


 次々と疑問が頭の中を飛び交うが、うまく頭が働かない。


「ここで、少し待っていて貰えますか」

「…………」


 何故、と問う声は言葉にならなかった。

 本当は心細くて堪らない。手を離さないで欲しかった。

 でも、怪異の正体を確かめるためにここに来たのだ。基経が何をしようとしているのかわからないが、黙って見守るしかないのだろう。


 葛藤しつつ、繭子は黙って頷いた。


「ありがとう、繭子さん」


 繋いでいた手が、そっと振りほどかれる。


 夫婦銀杏の下へと向かう基経の背中を、徐々に距離を詰める二人の姿を、繭子は息を詰めてただ見つめることしかできなかった。


「戻ってきているとは聞いていましたが……そろそろ臨月のようですね」


 静かな境内に、基経の声だけが響く。

 しかし彼の口調は、まるで旧知の友にでも語り掛けるような、気軽なものだった。


 彼女は視線を繭子から、ゆっくり目の前の男へと移す。


「……もう大丈夫ですから、今度は生身でお出でなさい」


 基経が、そう語り掛けた直後だった。

 それは一瞬の出来事で、瞬きをする間に女性の姿は消えてしまった。


 ……消えた。


 本当に消えたのだろうか。

 繭子は恐る恐る周囲を見渡した。


 いない……もういない。


 けれど、まだ膝の震えが止まらない。

 安堵のせいか、もう限界だったのか。繭子はへなへなとその場に崩れるように膝を付いた。


「繭子さん?」


 異変に気付いた基経は、慌てて繭子の元へ駆け寄った。


「どうしました! 大丈夫ですか?」

「……平気です。ただ……足に力が……」


 基経の手を借りて立ち上がろうとするが、まだ膝が笑っている。無理に立ち上がらせるのを諦めたのか、寄り添うように基経も膝を付いた。


「あの人は……何なのですか」


 まだ震えが止まらない。繭子は震える手を、固く握り締める。

 

「知っている方、なのですね」

「……ええ」


 躊躇うような僅かな間の後、基経は頷いた。

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