17 確かにそれは死霊ではなく

 道理で。と繭子はどこか納得していた。

 この女性が現れた時、基経は驚いてはいたが、恐れてはいなかった。


 知っている人だったのね。


 基経は肯定したものの、詳しくは語ろうとしない。

 もしかすると、あの人は……。


 繭子は恐る恐る切り出した。


「もしかして、もうお亡くなりに……?」

「いえ、ご存命です」


 ご存命?

 ぽかんとなった繭子を見て、基経は僅かに苦笑する。


「生きていますよ。死霊以外と言ったではないですか」


 そうだった。確かに言っていた気がする。


「俗に言う、生霊というやつです」

「生霊……」

「恐らく眠っている間に、魂が抜けでもしているのでしょう」


 魂が抜ける……?

 そんなことがあり得るのだろうか。


 ふと、思う。

 魂だけでも、ここに来たい理由があるのかもしれない、と。


 もしかしたら……あの女性ひとは、基経この人に会いたくて、ここに来たのだろうか。

 会いたいけれど会えない。何か事情があるのだろうか。


 まさかとは思うけれど……。


「……お腹の赤ちゃんのお父さんは」

「今の旦那様でしょう」


 繭子が何を想像したのか察したのだろうか。もしくは当たり前のことを、わざわざ聞くなと思っているのか。返した言葉はどこか素っ気ない。


「……ご結婚、されているのですね」

「風の噂によるとですが」


 淡々と基経は答えるものの、やはり肝心なことは話そうとはしない。


 立ち入るな、ということだろう。

 わかっている。何もかも事情が聞けるとは思わないし、無理に聞くつもりもないけれど。


 少し寂しい、と思ってしまうのは何故だろう。


「……いつまでも座り込んでいたら冷えますよ」

「あ……はい」


 繭子の手を取ると、立ち上がるのを手助けしてくれる。話をしていたら気が紛れたようで、何とか立ち上がることができた。


「ありがとうございます」


 足に力が戻ってホッとするが、基経はいつまでも手を離そうとしない。


「あの」

「繭子さん」


 さらに手を握り込まれ、繭子は困惑する。でも、どこか途方に暮れたような基経の表情を目にしたら、無碍に手を振り払えなくなってしまった。


「繭子さん……申し訳ありませんでした」

「……何がですか?」

「あなたを、怖い目に遭わせてしまったから」


 謝る理由は、きっとそれだけではないのだろう。

 でも、もういい。

 この先も基経は彼女の正体を明かさないだろうし、もう幽霊も現れないだろうから。

 そして今後会った時は、何事もなかった顔をして、何事もなかったように振る舞うのだろう。


 確信に似た予感がそう告げる。


「気にしないでください……肝試しは怖いものですから」


 だから何でもない、と笑ってみせる。基経も吐息と共に小さく笑う。


「……ありがとうございます」


 静かに基経の手が離れていく。

 微かな胸の痛みを振り払うように、繭子は暗い空を仰いだ。


 銀杏の枝の隙間から覗く空には、朱色が僅かに残るものの、ほぼ濃紺へ塗り替えられていた。空の色に魅せられて一歩踏み出すと、一粒の輝く星を見つけた。


「宵の明星か……」


 基経も歩を進めながら空を仰ぎ、ふと足を止めて呟いた。彼もその明星を見つけたようだ。

 目を凝らすと、ささやかな星々の輝きが浮かび上がってくる。

 小さな星の光は、まるで氷の粒を散らしたかのようだ。

 冬の凍てつく空気が頬を刺すが、星空に気を取られて気にならない。


 こうして夜空を見上げるなんて、ひどく久しぶりだ。しかもあんなに怖かった夫婦銀杏の下でだなんて。


 ついさっきまで幽霊と遭遇したことも忘れ、基経と二人、ただ夜空を眺めていた。

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