18 そして、春

 あの日から、銀杏神社へは行っていない。

 基経とも会うこともなく、時間だけが淡々と流れていった。


 ふと気が付けば身を刺すような寒さも和らぎ、暦の上では春を迎えていた。


* * *


「繭子、お客さんよ」


 終業式も終わり、春休みを迎えていた。

 その日は特に用事もなく、家族の洗濯物を畳んでいる時だった。


「お客さん?」

「ここはいいから、早く行っておあげなさい」


 やけにニコニコしている母の様子に、繭子ははっとなる。


 ……まさか。


 繭子は慌てて適当に束ねた髪を解き、手櫛で整えながら玄関へ向かった。


 何の用事だろう。また神社を手伝ってくれというのだろうか。

 少し緊張しながら玄関先へ行くが、そこにいる人物の顔を見た途端、がっくりと肩の力が抜けた。


「……おう」


 玄関先で腰を下ろした青年は、気だるそうに挨拶をする。


「……なんだ、信ちゃんか」

「なんだ、とはなんだ。失礼な奴だな」

「はいはい、すみません」

 

 繭子も信夫の傍らに座り込む。


 パリッとした白いシャツと黒いズボンは、学生の頃のものだろう。

 最上堂もがみどう。白い文字が書かれた紺色の前掛けをしているところを見ると、お店のお使い中のようだ。大きな風呂敷包みが二つ、信夫の隣に並んでいる。


「うち、最上堂さんに注文していた?」

「いや、休憩させて貰ってるだけだ」


 恐らく母が出したのだろう。信夫の傍らにはお盆に乗った湯呑み茶碗があった。ふわりと、梅昆布茶の匂いが立ち昇る。


「……我が家は休憩所ではありません」

「堅いこと言うなよ。お前の母ちゃんは『いつでもいらっしゃい』て言ってくれてるし」


 もう、お母さんってば!


 いくら幼なじみだからとはいえ、信夫に甘過ぎる。信夫は弟たちとは仲が良いが、繭子にとっては天敵みたいなものだ。出来れば玄関にも上げないで欲しいくらいである。


絹太けんた羊次ようじも留守だけど?」

「いや、今日はお前に用事だ」

「えー……」


 その用事とやらを察した繭子は、嫌そうに顔をしかめる。


「言う前に嫌がるなよ」

「だって、それの荷物持ちでしょ」


 信夫の隣にある風呂敷包みを指差した。

 すると信夫は感心したように破顔する。


「すげぇ! よくわかったな」

「……何度もあれば、いい加減わかります」


 そう。たまにではあるが、繭子を荷物持ちを頼みにやってくる。

 弟たちに頼めばいいものを「野郎ばかりだと暑苦しいだろうが」と言って、繭子に仕事を振ってくるのだ。


 少しは女だと思っているのかと聞いたところ、繭子が三兄弟で一番上背があり、力もありそうだからと返された。


 背はとっくに絹太に抜かれているのに。

 もしかすると信夫の頭の中では「力仕事は姉である繭子」という考えが根付いているに違いない。


「もちろん、ただでとは言わない」


 信夫は胸を張って言い放つ。


「最上堂の新作、極上カステラでどうだ」

「え、お店で出して貰えることになったの?」

「おう!」


 昨年から信夫が試作を重ねていたカステラが、とうとう商品として店に並ぶことになったようだ。


「おめでとう、信ちゃん」

「ま、俺の実力なら当然よ」

「……すぐ調子に乗る」

「うるせいわ」


 文句を言いつつも、信夫も悪い気はしないのだろう。最近はしかめっ面ばかり拝んでいたが、父親に自分の仕事を認められたのが、よほど嬉しかったようだ。満面の笑みである。

 信夫のことは苦手ではあるが、素直な気性はどこか憎めない。


「……もう、仕方がないな」


 繭子は大げさに溜息を吐いてみせる。


「カステラ、家族の分もよろしくね」

「お前、ちゃっかりしてるなぁ……まあいい。弟どもにも食わせてやってくれ」

「当然よ。それで、この荷物はどこへ運ぶのを手伝えばいいの?」


 途端、信夫の目が一瞬泳ぐ。


「信ちゃん?」

「神社だよ。あそこの……ギンナン神社」


 そうだ。最上堂は……。


 あの神社がご贔屓にしている店だったことを、今更になって思い出した。

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