【番外編】 独白

十和とわさんは、もういないの……ごめんなさい……」


 養母の言葉に、ああ、彼女は亡くなったのだと思った。だがそうではなかった。彼女は死んだのではなく、この家から去ったのだと。

 疎開した実家で私の訃報を聞いた彼女は、もう二度とこの家には戻らなかった。


 終戦間もなく私の戦死の通知と、石ころが入った骨壺が届いたということ。

 墓の下には、今でも自分の替わりに石ころが眠っている。



* * *



 代々、壱重いちょう家が宮司を務めてきた神社は空襲で焼け落ちてしまったが、御神木である夫婦銀杏が無傷であったのは奇跡だったといえよう。


 幸い住まいの方は無事であった。現在、新たな拝殿と本殿を建設中。翌春には完成予定ということだ。

 

 夫婦銀杏はすっかり黄金色に葉を染め上げていた。はらりはらりと木の葉が舞う。


 夕暮れ時、誰もいなくなった境内に足を運ぶのが、最近の習慣になっていた。

 黄昏時、もしくは逢魔が時とも呼ばれる現世と異界が交わる時間。

 神域と呼ばれ神社でも、この時間は出歩いてはいけないと、義兄に口を酸っぱくして言われていたものだ。


 出征前に、この樹の下で十和さんと交わした言葉を思い出す。


 ――この樹の枝と実をね、お互いが持っていると、どんなに離れ離れになっても再び引き合わせてくれるんですって。


 夫婦銀杏に古くからある言い伝えだと、十和さんは語っていた。

 義兄が十和さんに教えたのだろう。恐らく義兄も同じ御守りを手にして戦地へ赴いたが、ご利益は叶わなかった。

 単なる気休めだったろう。けれど、私は嬉しかった。


 彼女に対して恋情や愛情は無かったとかもしれない。だけど、この御守りに託してくれた思いは、想像以上に心の支えになっていた。

 戦地での過酷な状況は、確実に心を身体を摩耗していった。生きていることすら罪だと思うこともあった。


 生と死の狭間で、這いつくばっても生き抜いてやろうと思えたのは、待っている人がいるから。彼女がくれた御守りを、それに託した思いに縋りつくようにして何とか生き延びた。


 私が帰還したのは、終戦してから夫婦銀杏が二度目の紅葉を迎える頃だった。

 彼女はすでにこの家とは縁を切り、私ではない人と再婚していた。


 彼女との間には何もなかった。

 ただ義務として婚約を交わしただけだった。

 私と嫁ぐことになった彼女も恐らくそうだっただろう。


 だから彼女と交わしたものが、婚約だけでよかったと心から思う。

 周囲は出征前に婚姻を結ぶよう迫ったが、養父母が私の意見に賛同してくれたお陰で婚約に留めることができた。

 彼女との復縁を進められたが丁重にお断りした。

 すでに再婚した相手と離縁させるなどはなから望んではいない。何より、義兄の代替品との婚姻だなんて不幸でしかない。


 そう私は……義兄の代替品に過ぎない。

 私は義兄の代わりに、この神社の後を継ぐ。それが私の役割だ。遠縁の私がこの家に引き取られたのは、一人息子である義兄に何かあった時のため。


 彼女が待っていなくて、本当によかった。

 心からそう思うのに……この虚しさは何なのだろう。


 はらはらと、黄金色の葉が舞い散る。惹かれるように見上げると、銀杏の大樹が果て無く空に伸びていくような、吸い込まれそうな錯覚を覚える。


 このまま空に吸い込まれてしまえばいい。このまま消えてしまえたら……。

 無意識に浮かんだ思い。ふと、今更になって気が付いてしまった。


 ああ、そうか……そもそも帰ってこなければよかったのか。


 その考えにたどり着いた途端、身体の中が空っぽになっていくような、私という存在自体が搔き消えていくような感覚を覚える。


 広がる虚無感。

 そう、ここは神域ではなく魔の領域。

 どうせ代替品なのだ。私の心を食い尽くして、魔物がこの身に入り込んだとしても、きっと誰も気づかない。

 もし心だけではなく身体も食い尽くされたとしても、代わりを探せばいいだけのこと。誰かが困ることもない。


 その時、かさり、と乾いた葉を踏む音がした。


 ……来たか。

 

 逢魔が時、気づけば神域に足を運んでいた。恐らく無意識に待っていたのだろう。この虚しい心と身体ごと、片端から食らいつくしてくれるモノが訪れるのを。


基経もとつね、さん……?」


 唐突に名を呼ばれ、弾かれたように振り返る。

 ……が。予想していた醜悪な魔物は居らず、大人に足を踏み入れかけた少女が佇んでいた。


 巫女装束に身を包み、竹箒を手にし、年の頃は十七、八か。驚いたように大きく眼を見開いてる。

 ずいぶんと可愛らしい魔物が来たものだ。私は呆気に取られ、唐突に現れたモノに目を見張った。


「あれ……? 確かさっき社務所に…………あ」


 戸惑うながらも数歩こちらに近づいてきたが、何かに気づいたように少女は足を止める。

 慌てて袂から手拭いを出し、困ったように目を伏せると。


「あの、これを」


 その手拭いを差し出してきた。

 なぜ手拭いを? 一瞬疑問に思うが、顎を伝う冷たい滴の正体に気付き、慌てて手の甲で目元を擦る。

 正体は知れないが、見た目は異性だ。みっともない姿を見られるのは、やはり気まずかった。


「いけません、擦ったら」


 私の手を取ると、手拭いを握らせた。

 一瞬、少女の指が触れる。ひやりと冷たいのは人ならぬモノだからなのか。単に外気で冷えただけなのか。

 しかし手拭いだけは、袂に入っていたせいか、ほのかな温もりが残っていた。

 私が素直に手拭いを受け取ったからだろう。少女は安堵したように頬を緩める。


「……あの。温かい生姜湯を用意しておきまから、冷めないうちに戻ってきてくださいね」


 少女はくるりと踵を返す。何歩か進むが、不意に足を止めて振り返った。


「待っていますから」


 途端、強い風が吹きすさぶ。舞い狂うような銀杏の葉が、少女の姿を覆いつくした。


 本当に一瞬の出来事だった。


 風が止んだ途端、黄金色の葉で覆われた地面が広がるばかりで、少女の姿は跡形もなく消えていた。


 今のは……?


 すでに辺りは暗く、自分の手元すらよく見えない。

 しかし手拭いは残っていた。わずかに残っていた温もりは消えていたが、確かにこの手の中にある。


 逢魔が時。現世と異界が交わる時間。

 あの少女は魔物だったのだろうか。もしくは異界の住人か、もしくは。






 手拭いはまだ下ろし立てらしく、糊が利いて皺もない。広げてみると銀杏の葉を意匠した、なかなか洒落たものだ。

 どうやら正月に配るために用意したものらしく、うちの神社名と年月日が入っていた。

 ただ不思議なのは、八年後の日付けになっていることだ。


 八年後、またあの少女と出会えるのだろうか。

 温かい飲み物を用意して、私を待ってくれる人がいるのだろうか。

 

 あれから何度か同じ時、同じ場所に足を運んだが、あの少女は現れなかった。


 ――待っていますから。


 時間が経つにつれ少女の面影は記憶から薄れていったが、彼女がくれた言葉だけは、いつまでも耳に残っていた。


 


 

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