24 本当に奇遇ですね
逃げ場を失った繭子は、目を固く閉じた。
次の瞬間、軽い衝撃と包み込まれるような感触。恐る恐る瞼を開くと、白い布地が目の前にあった。頭の上からは苦しげな吐息。
……基経さん?
顔を見ようと身動ぎをすると背中に回された……恐らく基経の腕だろう、逃すまいと繭子の身体を締め付ける。
締め付ける腕の力が強すぎて、息ができない。
「基経さん、苦し……」
息絶え絶えに声を振り絞ると、勢いよく身体を引き離された。
「……繭子さん?」
ものすごく驚いた、としか表現できない表情の基経が、茫然と呟いた。
「…………は、い」
「まさか……本物、ですか?」
本物とはどういう意味だろう?
冗談で言っているようには見えない。少なくとも偽物ではないので、こくりと頷いた。
すると基経は恐る恐る手を伸ばし、繭子の頬を、むに、とつまむ。
「……痛いです」
軽く睨むと、やっと頬から手を離す。
「…………失礼しました」
基経は一歩、二歩と繭子から離れると、片手で顔を覆って項垂れてしまう。
「あの……基経さん?」
「いえ……本当にもう、若いお嬢さんに大変失礼なことを……申し訳ありません」
こちらが見ていても気の毒になるくらいだ。
こんな基経を見たことがなくて、繭子の方がおろおろとしていまう。
きっと誰かと間違えたのだろう。そう思うだけで、胸の奥がきりりと締め付けられる。その痛みに背を向け、繭子は笑顔を作る。
「大丈夫です、誰にも間違いがありますから……」
「……いえ、まさか本物とは思わなくて…………いえ、本物じゃないとしても駄目です、本当に……申し訳ありません」
何と間違えたのか知らないが、繭子だとは思わず抱き締めてしまったというわけだ。
「大丈夫です。わたし、全然気にしていませんから」
基経を励まそうと笑顔で告げる。
少しでも基経の気持ちが楽になればいい。そう思っていたが、基経はまだ顔を見せてくれない。
「あの、本当にわたしは平気ですから気にしないでください」
すると、ようやく顔を覆っていた手を外した。少し赤みがかっている頬は、恐らく夕陽のせいだろう。
「……繭子さんは、お優しいですね」
優しいと言われたものの、何故か基経の目は恨めしそうだ。
「いえ……そんなことは……………」
二人の間に沈黙が降りる。その直後だった。
「あ……」
鳥の声が、羽ばたきが。風が枝を揺する音。
様々な気配に包まれている感覚が甦る。
さっきまで夕焼け空だったのに、宵の明星が綺麗に見えるほど暗くなっていた。
逢魔が時が終わったようだ。
空から視線を戻すと、黙りこくった基経と目が合った。
「……基経さん、お話があります」
「奇遇ですね。私からもお話があります」
「え? 何でしょうか」
「いえ、繭子さんのお話から聞かせてください」
基経からの話が気になるが、まずは話すしかない。
心の準備は出来ていないが、せっかくこうして会えたのだから。
心臓が早鐘のようだ。緊張して手が震える。
断られたら、迷惑に思われたら……と考えると身が竦むが、言わない方がきっと後悔する。
「あの……基経さん…………お願いがあります」
声が震える。自分を励ますように、ぎゅっと両手を握りしめる。
「何でしょう」
「一年間だけでいいのです。この神社で、巫女のお仕事をさせてもらえませんか?」
神社の仕事は面白かった。
巫女の衣装も可愛くて、身に纏うと心が躍る。
神主ご夫婦も、親戚の叔母様たちも親切だ。
それよりも、何よりも……あなたのことをもっと知りたい。
「理由を聞かせていただけますか」
「え……」
思わず、どきりとする。
「何故、一年間だけなのですか?」
てっきり、どうして巫女の仕事をしたいのかと聞かれるかと思った。そっと胸を撫で下ろす。
「春には高校三年生になります」
「ああ、そうでしたね」
「卒業するまでが、区切りがいいかと思ったわけです……」
基経はこの神社の跡取りだ。
ゆくゆくは本当の宮司となって、この神社を守っていくだろう。
そんな彼を支える女性が、恐らく数年のうちに現れるはずだ。
でも一年くらいなら、きっとまだ……。
胸の中でひっそり芽生えた感情が、どんなものなのか知ってみたかった。
たとえ、その気持ちの行き場がないとしても。
基経はじっと話を聞いた後、「なるほど」と呟いた。そして、腕組みをして宙を睨んで、うむと頷いた。
「……わかりました。うちで働いていただきましょう」
「え」
驚くほど迅速すぎる返答だった。
「毎週日曜日の朝八時から夕方の三時まで。土曜日も午後から出られるようでしたらお願いします。もちろん用事がある時は言ってください。お給金は一時間あたり三十円。行事の時は五十円にしましょう。長いお休みの時は要相談で。昼食とおやつはうちの家族と同じものでよろしいでしょうか。よろしければ無償で提供します。それから」
「ちょっと、待ってください!」
つらつらと労働条件を並べられ、繭子は慌てて遮った。
「雇っていただけるのですか?」
「ええ、もちろんです」
何を今更、という顔で返される。
まさか即答されるとは思わなかった。それに基経の独断で決めていいことではないはずだ。
「ご家族にご相談しなくてもいいのですか?」
「すでにうちの者も了承済みです」
「え?」
今初めて言ったのに、そんなはずはないだろう。
困惑する繭子に、基経は楽し気に目を細める。
「私からも話があると言いましたよね。それは繭子さんに、ここで働いて貰いたいとお願いしようと思っていたのです」
「……本当ですか?」
「はい。もちろん」
基経は薄く微笑むと「本当に、奇遇ですね」と付け加えた。
【夫婦銀杏の怪異 完】
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