3 梨恵子のお願い

 暦の上ではまだ秋だが、吹き付ける夜風はすでに切りつけるように冷たい。ここ数日、もう冬だと言ってもいいくらいに寒い。


 空に昇った下弦の月。いつもよりも冴々とした光が、忍び足で夜道を進む二人を照らす。

 家族には「梨恵子の家で勉強会をするから帰りが遅くなる」と告げてあった。

 梨恵子もまた、家族には「まゆちゃんの家で勉強会をする」と告げてきたという。


 つまりはお互いが、お互いの家で勉強をすると嘘を付いてきたわけだ。当然梨恵子の提案である。

 繭子は気が気でなかったが、梨恵子は「絶対に気づかれないから大丈夫」と能天気なものだ。


「寒い……」


 親に嘘をついてまで、どうしてこんなことをしているのだろう。

 マフラーに鼻先まで埋めて、繭子は溜息を吐いた。


 制服の上にコートを羽織っただけでは物足りず、母が編んだ毛糸のマフラーをぐるぐる巻き付け、スカートの下には厚手のタイツと膝丈の白靴下を重ね履きしていた。もちろん手袋も着用している。

 ブレザーの下にはセーターも着込んでいるものだから、繭子はふくふくと着膨れている。

 しかも背が並み以上に高いものだから、余計に大きく見えてしまう。少々見てくれはよろしくないのは重々承知していたが、寒さを凌げるなら構わなかった。


 一方梨恵子は制服もコートも同じだというのに、寒さなどものともしていない。

 柔らかそうな白いマフラーは、防寒のためというよりはお洒落のため。もちろん繭子のように下に色々着込んだりはしない。

 膝丈のスカートがひらりと揺れるたびに、剥き出しの白い足が覗く。


 そんな薄着で寒くないのだろうかと、梨恵子の背中で跳ねるお下げ髪を眺めながら思う。


「あー……もう、寒い……」


 懐炉を持ってくればよかったと、冷たい風に身を震わせながら後悔する。


「まゆちゃんったら、相変わらず寒がりね」

「寒いものは寒いの……」


 くるくる回りながら歩く梨恵子は、まったく寒さなど意に介さないようだ。

 そういえば幼い頃から、雪の中を上着も着ないで走り回っていたっけ。


 誰のせいで、こんなに寒い中を歩く羽目になったのだ……と言いたいところだが、寒さに堪えるのが精いっぱい。文句を言う気力もない。


「さむ……」


 手袋をはめた両手を擦っていると、梨恵子は小さく吹き出した。


「やだ、まゆちゃんってば、おばあちゃんみたい」

「…………」


 花も恥じらう乙女に向かって、おばあちゃん呼ばわりとは何事か。

 一瞬、怒りを覚えたものの、この寒さの中では怒りを持続するのは難しかった。


 数歩先を進む梨恵子の後姿を眺めながら、繭子はもう何度吐いたかわからない溜息を吐く。


 糸川家は、澤田家には恩がある。

 戦時中、家を失った我が家は澤田家の別荘に疎開させてもらったり、食料だって分けてもらった。

 お陰で我が家は飢えることなく、無事終戦を迎えることができたのだ。

 糸川家の人間は、澤田家に足を向けて寝られない。そのお陰で、今では繭子は梨恵子のお世話係と化してしまったわけである。


 以前、あまりにも梨恵子の我儘が過ぎる時に家族に相談したものの「梨恵子さんのおうちにはご恩があるから」の一点張りだ。

 家族に話したところでどうにもならないのだと、諦めたのはいつだったか、もう思い出せない。

 以来、ずるずると続いてしまった関係は、気が付けば周囲にも定着してしまい、繭子が梨恵子の面倒を見るのは当たり前のようになってしまった。


 どうして、わたしだけが澤田家の恩返しをしなければならないのだろう。

 どうして、梨恵子は我が儘ばかり言って困らせるのだろう。

 頭の中で、いくつもの「どうして」が飛び交う。

 しかし考えたところで、どうにかなるわけでもないことくらいわかっている。自分は澤田家の人身御供なのだ。


「寒い……」


 歩を進めるうちに、次第に気持ちも足取りも重たくなってきた。


「まゆちゃん、早くー」


 先を歩いていた梨恵子が、急かすように大きく手を振る。その背後には朱色の鳥居がひっそりと佇んでいた。

 まだ新しい鳥居の前には、一応街灯はあるものの、今にも消えてしまいそうに明滅している。

 手前に明かりがあるせいで、鳥居の奥の闇が際立つ。塗りつぶしたような闇の気配に思わず息を呑む。


「まゆちゃーん」

「せ、急かさないでよ……」


 嫌だ。やっぱり行きたくない。

 鳥居の向こうには、二本の大樹が黒い影となってそびえ立っている。


 その大樹、銀杏は神社のご神木だ。樹齢何百年という夫婦銀杏と呼ばれる二本の樹。

 地元の人間なら誰でも知っている。そして、この土地を古くから守ってきた由緒正しいご神木だということも。


 けれど、怖いと思ってしまう気持ちはどうにもならない。


「もう、早くってばー」


 躊躇する繭子の心情など知りもしないで、梨恵子は早く早くと手招きをする。

 長年の付き合いなのだから、苦手な気持ちを察してくれないかと期待した頃もあったが、今はもう諦めた。


「はいはい、わかりました」


 虚勢を張るように声を上げると、「しいっ!」と梨恵子に制される。


「まゆちゃん、静かに」


 自分は散々「早く早く」と声を上げていたくせに。

 さすがに繭子もムッとなるが、鳥居の近くまで来て、その理由を察した。


「……立入禁止って書いてある」


 鳥居の前には、行く手を阻むように木板で作られた立て看板が置かれていた。

 真新しい木の板に直接赤いペンキで「夜間立入禁止」と力強く描かれている。

 今にも消えそうな街灯の明かりの下でも、それはくっきりと読み取れた。


「入ったらいけないみたいだけど」

「平気平気。まだ夜間なんて時間じゃないでしょう?」

「ねえ。ギンナンが拾いたいなら、この先の並木道で拾えばいいんじゃない?」


 そうだ。立入禁止と書かれている場所に入るという危険を犯すより、誰もが通れる並木道のギンナンを拾う方が気も楽だし安心だ。

 我ながらいい提案だと思っていたが、梨恵子はそうは思ってくれなかったようだ。


「この神社のギンナンじゃなくちゃダメなの」

「並木道のギンナンは実が大きくって美味しいって、隣のおばさんが」

「ここのギンナンじゃないと、ダメなの!」

「……どうして?」

「じゃあ、教えてあげるけど……内緒にしてくれる?」


 取りあえず頷くと、梨恵子はこっそりと耳元で囁いた。


「あのね、ここのギンナンは、恋のおまじないに効くの」

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