4 ギンナン泥棒

「おまじない?」


 ギンナンはおじいちゃんの大好物だから、こっそり拾いに行きたいの。

 だから家族には内緒にしたいの。

 時間を潰していた図書館で、そっと耳打ちしたあの言葉は嘘だったようだ。


 やっぱりね……。

 祖父のために銀杏を拾いたいからなんて、梨恵子らしくないと思ってはいた。だが、恋のおまじないのためにという理由なら、いかにも彼女らしい。

 繭子がひとり納得していることなど露知らず、梨恵子は握りしめた両手を胸に、うっとりと月を見上げる。


「あのね。満月の晩に、誰にも気づかれないように拾った二つギンナンの実をね、ひとつは自分の庭のに、もうひとつは相手の庭に埋めるの。そして、そのふたつのギンナンから芽が生えたら恋が実るんだって」

「……へえ」


 誰にも気づかれないようにって……。

 すでに繭子を巻き込んだ時点で終了しているのではなかろうか。

 しかし忠告したところで、自分に都合のいいよう理由を作ってしまうのだろう。


「だから、まゆちゃん。実がよく熟れているギンナンをふたつ拾ってきてね」

「えっ!」


 するりと繭子の背後に回ると、促すように背を押した。


「はい、行ってらっしゃい」

「ちょ、ちょっと待って」


 華奢なくせに、こういう時は驚くほど力が出るらしい。行きたくないと足を踏ん張っているが、ずるずると鳥居の方へと押されてしまう。


「わたしにやらせたら、梨恵子にご利益がなくなっちゃうでしょ? 自分で行った方がいいと思うけど」


 こんな薄気味悪いところに一秒だって居たくない。声が震えそうになるのを堪えて、必死に訴える。しかし。


「だって、梨恵子、視力が悪いからこんなに暗いと見えないの」


 視力が悪いなんて初耳だ。梨恵子の手を振りほどいて、仁王立ちになる。


「だったら今度眼鏡を作ってもらいなさいよ」

「ええっ、嫌よ」

「どうして」

「可愛くないから、眼鏡なんて嫌なの」

「…………」


 無駄だ。梨恵子に何を言っても通用しない。


「じゃあ、誰か来ないかここで見張っているからよろしくね」

「嫌だってば。梨恵子、人の話を」

「まゆちゃん、お願い」


 がくがくと肩をゆすぶられ、懇願されているうちに断る方が面倒だと判断した。


「…………わかった」


 投げやりに返事をすると、繭子は境内の奥にそびえる銀杏の大樹を挑むように見上げる。

 怖い。しかもあの夫婦銀杏の実を取りに行かされるなんて。


 最悪だ……。

 しかし、もうここまで来たら仕方がない。さっと用事を済ませてしまえばいい話だ。

 神様だって、ギンナンの実くらい盗ったところで、大目に見てくれるに違いない。


 自分に無理やり言い聞かせると「夜間立入禁止」の立看板をすり抜け、境内の中へと足を踏み入れた。

 唯一頼りの月明かりも、空を覆う木々の枝のお陰でわずかしか届かない。周囲は耳が痛くなるほど静かで、砂利を踏む自身の足音ですら、やけに大きく響く。

 不気味な存在感を放つ拝殿の横を一気に駆け抜けると、靴の下で、何か柔らかくも堅いものを踏み潰した感触を覚える。

 そろりと靴の裏を返してみると、あの匂いが強烈に鼻を突く。


「うわあ……」


 ギンナンだ。しかも良く熟れた、梨恵子が望むものだ。

 靴の裏を地面に擦り付けて汚れを落とすと、じいっと地面に目を凝らす。


 夜闇に目が慣れてきたようで、地面に落ちたギンナンの実がある程度確認できる。

 この樹の規模にしては、あまり数は多くない。恐らく、ここを管理する者が小まめに掃除しているからだ。

 そうでなかったら、この境内は数秒も居られないほどひどい匂いに包まれていたことであろう。

 繭子は夫婦銀杏に向かって手を合わせる。


 ――神様ごめんなさい。ふたつだけ実をいただきます。


 一応お断りは済ませた。あとは神様が狭量でないことを祈るばかりだ。 


「さて……」


 繭子はその場にしゃがみ込むと、地面に転がったギンナンの実を凝視する。

 どれがよく熟していて、どれが熟していないかなんてわからないが、枝から落ちてきたということは、恐らく全て熟しているのであろうと勝手に判断を下す。

 手で持つわけにもいかないので、ハンカチでギンナンの実をそっと包む。

 ぐにゃりと柔らかい銀杏の実の匂いは、思わず顔を背けたくなるほどだ。指に実の汁が付かないように、どうにかふたつ選ぶことができた。


 やれやれと腰を上げた、その時だった。


「……何をなさっているのです?」


 低く鋭い声と砂利を踏む音に、繭子は息を詰め身を固くした。


「勝手な行いは困りますね」


 男の声と共に、腕を強く掴まれる。


「っ……」


 ハンカチに包んだギンナンが、ぽろりと手から落ちる。

 見知らぬ男の体温を感じた途端、身震いをするほどの嫌悪と恐怖を感じる。

 お化けでも幽霊でもない。生きた人間だ。


 ――幽霊なんかよりも、生きた人間の方がよっぽど怖いわよ。


 木の葉が揺れただけで騒ぐ繭子に、苦笑交じりに母親が言った言葉が甦る。


「……い、やっ!」


 繭子はたまらず悲鳴を上げた。

 途端、男の手が小さく跳ねる。


「……え?」


 耳元で戸惑った呟きを耳にする。男の拘束が緩んだ隙に、繭子は身を捻って逃れようとする。


「やだ、離して……!」


 じたばたと手足を振り回すが、呆気なく男に両腕を取られてしまう。

 なるほど母親が言った通り生きている人間の方が厄介かもしれないと実感するものの、今はこの状況をどうにかしなければならない。


「離して」


 威勢よく言い放ったつもりだったが、実際は声が震えて情けない声しか出てこない。

 梨恵子が助けに来てくれるかもしれない。

 一瞬頭を掠めるが、残念ながらそれは無い。今の騒ぎ声を聞いて、きっと逃げ出しているに違いないと確信する。


「大声出して神社の人、呼ぶわよ」


 声が震えないよう、腹に力を入れて脅し文句を吐き出す。


 立入禁止の場所に入った繭子自身も、当然神社の人間に見つかっては不味い。しかし、この男にどうにかされるよりはましであろう。

 しかし男は焦るどころか、人を馬鹿にするかのように失笑すると、繭子を引きずるようにして歩きだした。

 懸命に足を踏ん張るが、そもそも力が違う。虚しくずるずると音を立てて靴底が地面を滑る。


「……本当に大声だしてやるから」

「私はここの神社の者ですよ。ギンナン泥棒さん」


 引きずられたまま大樹の陰から出た途端、月の光が男の姿を照らし出した。


 白い着物と浅葱色の袴。その姿は、男の言葉が嘘ではないと物語っているかのように、冴え冴えと夜闇の中で白く浮かび上がった。


「私は――ここの宮司です」


 男はゆっくりと振り返る。


「不法侵入で警察に連絡しても構いませんが……困るのはあなたの方ではありませんか?」


 苦笑まじりに告げられ、繭子は息を呑んだ。

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