9 泣き顔

 こんな静かな通りで騒いでいたら、嫌でも気付くだろう。

 近づいてくる基経の姿を目にした途端、安堵と焦りが同時に沸き起こる。


「繭子さん、どうしました?」


 基経が歩み寄りながら、繭子の顔を覗き込む。

 労わるような彼の声色を耳にした途端、急に涙腺が緩んでしまいそうになる。


「いえ、あの……」


 みっともない顔を見られたくなくて、俯いて顔を背けた途端、ほろりと涙が零れ落ちてしまう。

 慌てて手の甲で拭うが、間近で見ていて梨恵子が戸惑いの声を上げた。


「え……まゆちゃん……泣いちゃったの?」


 驚いたような梨恵子の声を聴いた途端、たがが外れたかのように涙がほろほろと零れ続ける。


「まゆちゃん、お願いだから泣かないで」


 普段、人前で涙を見せることがない繭子が泣き出したこと自体に、梨恵子はただただ驚いているようだ。


「やだ……どうしよう。まゆちゃんが泣いちゃった。どうしよう信夫くん」

「いやぁ……どうしようと言われましても……ほら、もう泣くなよ繭子」


 困惑と驚きが混じった梨恵子と信夫の声。

 繭子だって、泣きたいわけじゃない。涙が止まらないだけだ。

 しかも人前で泣くなんて、小さな子供じゃあるまいし。

 必死に何度も手の甲で拭っていたら、突然白いものが顔に押し付けられた。


「擦ったら目が腫れてしまいますよ」


 基経が押し付けてきたものは、手拭いだった。懐に忍ばせていたのか、ほんのりと温かい。

 手拭いを受け取ると、目元に押し付ける。ほんの少しだけ気持ちが落ち着いてきた。


「す、みません……あの」


 基経は宥めるように、繭子の背中をぽんぽんと叩く。

 背中に触れた大きな手は温かかった。そのせいで納まりそうだった涙が、またじわりと滲んでくる。

 まるで小さな子供のような扱いに恥ずかしいやら情けないやら。居たたまれない気持ちでいっぱいだ。


「……ところで、これはどういう状況なのでしょう」


 繭子は自分に問われたと思い、びくっと肩を震わせる。

 基経の、あの時見せた冷やかな眼差しを思い出し、怖くて身体か硬直してしまう。


「お友達をこのように追い詰めるとは、何事ですか」


 繭子の緊張に気付いたのだろう。添えられたままの手が、宥めるように繭子の背中叩く。

 ただそれだけなのに、堪らなく安堵しているのが少し悔しい。


「……別に、泣かせるつもりは」

「梨恵子も、あの、どうしよう……ごめんねまゆちゃん」


 二人の戸惑った声が耳に届く。

 二人が悪いわけじゃない。今まで自分が溜め込み過ぎたせいだ。

 もっとしっかり「行きたくない」と言えばよかったのだ。

 元々は自分自身が撒いた種。後始末はちゃんとしなければいけない。


 繭子は小さく鼻を啜ると、手拭いに埋めていた顔をそっと上げた。


「あの……!」


 * * *


 基経に勧められ、本宅の客間に通された。

 当然「お茶でも」ということになり、今こうして四人で座卓を囲んでいる。

 この場で話をしているのは、梨恵子と基経だけ。信夫は居心地が悪そうな面持で、お茶にも菓子にも手を付けない。それは繭子も同じだった。


 自分のところで幽霊が出たと騒がれて、嬉しいはずがない。

 胃がきりきりと痛んできた。

 早く帰りたい。繭子は湯呑み茶碗に視線を落とす。


「それで、どうして神社うちへ?」

「申し訳ありません」


 ここで幽霊らしきものを見た事。

 うっかり梨恵子に話してしまったこと。

 興味を持った梨恵子に、自分の意志をしっかり伝えなかったこと。

 二人を止める努力をしなかったこと。


 これらはすべて自分の責任だ。


「繭子さん。ただ謝られても、わかりませんよ」

「それは……」


 繭子が口籠ると、代わりに梨恵子が口を開いた。


「まゆちゃんがお正月に、こちらで幽霊を見たお話を聞いて。本当かどうかを確かめようと思ったんです」

「なるほど」


 り、梨恵子の馬鹿……!

 あまりにも明け透けすぎる。冷や汗が、背中を伝う。


「どのような幽霊だったのですか」

「ええと……妊婦さん、女の人の幽霊。そうだよね?」


 唐突に同意を求められ、繭子は曖昧に頷く。

 恐ろしくて、基経の顔を直視できなかった。

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