2 困った幼馴染

「まゆちゃん、一生のお願いがあるの」


 梨恵子の「一生のお願い」は、今月に入ってもう何度目だろう。繭子は書きかけの日誌から顔を上げると、少々大袈裟なため息をついた。


「一昨日も、したばかりだったよね?」

「今回は本当に本当だから」


 すがるような目で、神頼みでもするかのように梨恵子は手を合わせる。

 時は放課後。人もまばらになった教室に、やけに大きく梨恵子の声が響き渡る。

 まだ教室に残っていた数人の級友たちは、すでに日常茶飯事と化した梨恵子と繭子のやり取りには、関わりたくないようだ。また始まったという顔をして、同情するような視線を繭子に送るものの、助け舟は出してくれない。


「ねえ、まゆちゃんってば」


 繭子の机にしがみつき、潤んだ瞳で訴える。

 小さくて細くて色白で、真っ直ぐな長い黒髪。くりっとした大きな黒目がちの目をした梨恵子は、まるでお人形のように愛らしい。


「まゆちゃーん」 

「だめ」

「そんなぁ」


 梨恵子は甘えた声を上げる。


「どうして意地悪言うの? 梨恵子、繭ちゃんしか頼る人いないのに」


 甘えを含んだ潤んだ瞳で、じいっと見上げる。

 そんな顔は反則だ。昔からこの顔に騙されてきた。


「駄目なものは、駄目です」


 ここで折れてはいけない。

 繭子は鉛筆を握り直し、日誌に再び取り掛かろうとするが、梨恵子が日誌を取り上げてしまう。


「もう、返して!」


 取り戻そうと手を伸ばすが、梨恵子はひらりと身をかわす。


「ちょっと、梨恵子!」

「先に梨恵子の話を聞いて」

「何度も一生のお願いをする人の話なんて、聞いていられません!」

「梨恵子のお話聞いてくれるまで、これは返せません!」

「もう! いい加減にして!」


 椅子が倒れる勢いで立ち上がると、逃げる梨恵子を追い掛ける。


「返して!」


 前に回り込み、梨恵子の行く手を阻むと日誌を取り戻そうとする。しかし奪われてたまるものかと、梨恵子は日誌を抱えてしゃがみ込んでしまった。


「やだぁ、まゆちゃん怖いよぉ……」


 怯えるように細い肩を震わせる。

 怖いとは失礼な。か弱い振りをして、自分の我儘を押し通す梨恵子の方がよっぽど怖いくらいだ。


 日誌をがっちりと抱き締め、梨恵子は声を震わせる。


「まゆちゃん、怒ってばっかりで、梨恵子の話、ちっとも聞いてくれない……」

「人の話を聞いていないのは梨恵子の方でしょう?」

「ひどい……」


 繭子のつれない態度に、とうとう泣き出してしまった。


 出た! 梨恵子の泣き落し。

 どうせ嘘泣きだとはわかっている。でもあまりにも悲しそうに泣くものだから、自分がとてつもなく悪者になったような気さえしてしまう。


「……もう、わかった。わかりました!」


 とうとう音を上げた繭子は、白旗を上げた。

 このままでは日誌は完成しないどころか、家にも帰れなくなってしまう。結局梨恵子の我儘に付き合わなければならないのは癪ではあるが、自分が折れるしかこの押し問答が終わらないことはわかっていた。


 繭子は身体を投げ出すように手近な椅子に座ると、机の上に頬杖をついた。


「で、お願いって何?」

「……まゆちゃん!」


 泣いていたカラスはどこへやら。泣き顔は一瞬にして、全開の笑顔へと変貌する。


「ありがとう、まゆちゃん、大好き!」

「もう、今回だけだからね」

「うん! ありがとう」


 両手を広げて駆け出し、繭子の首根っこに甘えるように抱きついてきた。


 あーあ……わたしって馬鹿。

 繭子は自分自身に呆れながら、溜息とともに天井を仰ぐ。


「それで。今回の一生のお願いは?」


 嫌味を含ませて訊ねるものの、肝心の梨恵子はまったく気づいていない。


「あのね、ギンナン拾いに付き合って欲しいの」

「ギンナン?」


 そんなことがお願い?

 梨恵子にしては、ずいぶんと可愛らしいお願いだ。

 訝しげな表情を浮かべる繭子に、梨恵子はただ満面の笑みを浮かべた。


* * *


 この澤田梨恵子とは物心付いた頃からの付き合いだ。いわゆる幼なじみという関係である。

 今年は組が離れて安堵していたのも束の間、休み時間、昼休み、放課後……とことあるごとに顔を出してくる。梨恵子という存在は、繭子の級友たちに知らない者はいないというくらい有名になっていた。


 梨恵子がこんなにも我儘なのは、彼女の両親は彼女に対して大層甘いからだろう。

 蝶よ花よと育てられた一人娘だから、という理由もある。だが、大事な跡取り息子である長兄を十年に終わった戦争で亡くしてしまったことが一番大きいのかもしれない。


 十歳上の彼女の兄は、澤田家の自慢の跡取り息子であり、梨恵子にとっては自慢の兄だった。

 そんな梨恵子の兄が亡くなったという知らせが届いたのは、終戦の年。焼け残った神社の夫婦銀杏が、黄金色に色づく季節だった。


 以来、梨恵子は繭子にべったりとくっ付いて回るようになった。繭子は少女の中でも背が高く、弟が二人いるせいか頼りやすいのだろう。


 繭子に何かにつけて頼って来るようになったが、高等学校に上がった今でも続くとは夢にも思わなかった。

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