13 逢魔が時、再び
「基経さん?」
てっきり八重子が来るのか思っていた。
繭子は慌てて火鉢から離れようとすると、基経は「いいですよ、そのままで」と言うので、お言葉に甘えることにする。
「すみません。甘酒を温めてきたので遅くなりました」
繭子の前まで来ると、基経は膝を付いた。
「この部屋は、日中陽が射して暖かいのですが、陽が暮れると寒いでしょう?」
「確かにそうですね」
膝の上で握り締めた指先を擦り合わせる。
「温かいうちにどうぞ」
「ありがとうございます」
お盆を畳の上に滑らせるように置くと、基経も火鉢の傍に腰を下ろした。
お盆に乗った二つの湯呑茶碗。立ち昇る湯気からは、微かに酒精が香る。酒粕を溶いた甘酒のようだ。
「酒精は飛ばしたつもりですが、飲みにくかったら無理しないでください」
「多分大丈夫です。うちでも母がよく作ってくれるので」
「そうでしたか。味見もしてはいますが、念のため……」
基経は湯呑茶碗のひとつと手に取ると、ふうっとひと吹き冷まして口を付ける。そして、安堵したように息を吐く。
「うん、我ながらよくできています」
得意げに頷く。その様子が少し子供っぽくて、笑ってしまいそうになる。込み上げる笑みを誤魔化すように、繭子も湯気の立つ湯飲み茶碗を手に取った。
「いただきます」
ぽってりと厚みのある湯呑茶碗を手で包み込むと、じんわりと温もりが伝わってくる。
ひと口、音を立てないように啜る。とろりとした甘酒は、しっかりと甘い。少し生姜が入っているようで、ほのかではあるが特有の清々しい香りを感じる。
「……美味しいです」
堪らず呟くと、基経は嬉しそうに目を細めた。
初めて目にする表情に、繭子は思わず目を瞠った。
この人も、こんな
親の仇かのように睨まれたのは、つい数か月前のこと。ギンナン泥棒の罪滅ぼしとして神社を訪れた時も、冷やかに目ね付けられたものだ。
冷やかに感じる切れ長の目元はそのままなのに、こんなにも印象が違うなんて。
柔らかな夕陽を受けて、基経の伏せた瞼が黄金色に透ける。ただ甘酒を啜っているだけなのに、その姿につい見入ってしまう。
不意に、黄金色に縁取られた瞼がゆっくりと開いた。
「私の顔に、何か付いていますか?」
「え、あっ」
繭子は慌てて視線を落とした。
人の顔をじろじろ見ていたなんて恥ずかしい。
「いいえ……あの、奥様のお話は? こちらにいらっしゃるのですか?」
恥ずかしさを紛らわすように口早に訊ねるが。
「ああ、あれは嘘です」
「え……」
「繭子さんと、二人になりたかったのです」
どきり、と心臓が跳ねる。
それは……どういう意味だろう。
畳に落としていた目線をそっと上げると、穏やかな眼差しとぶつかった。
「繭子さん」
「は、はい」
「……見たのでしょう?」
何を、と言わずとも繭子にはわかってしまった。
一気に冷や水を浴びた様に、身体が縮み上がる。
怯えた繭子の眼差しに、確信を得たように目を細める。
「実は、私もあれを見ているのです」
繭子は、ごくり、と生唾を飲み込む。
やっぱり気のせいじゃ、見間違いじゃなかったんだ……。
さっきまで夕焼け空だったのに。
窓から見える空の色が、瞬く間に薄闇の染まっていく。
逢魔が時が、目前に迫っていた。
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