12 帰宅
ボーン、ボーン……
柱時計が時を告げる音が聴こえてきた。そういえば、玄関に大きな柱時計が置いてあったのを思い出す。
「もう四時ですか。暗くなる前に帰られたほうが良さそうですね」
そういいながら基経は窓に面した障子を開ける。
襖の隙間から見える空は、すっかり夕方の色に染まってた。陽が傾き始めると、暗くなるのはあっという間だ。
そうだ。基経にまだちゃんと謝っていない。
「あの」
繭子が腰を浮かし掛けた時だった。
「あ、そうでした」
突然思い出したかのように、基経は声を上げた。
「帰り間際に申し訳ないのですが、うちの母が、繭子さんに用があると言っていまして。少しお時間いただけますか?」
「奥様が、ですか?」
「ええ。急で申し訳ありません」
一体何の用事だろう。基経に非礼を侘びたら、さっさとここから退散したいのに。
とはいえ、用事があるというのなら仕方がないし、これ以上失礼を重ねるわけにもいかないだろう。
しかし、一体どんな用事だろう。思い当たる節はないが。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
繭子が頷くと、基経は珍しく相互を崩す。
「そういうわけで、繭子さんは残っていただくことになりましたので、お二人は先にお引き取りください」
「いやいや、少しくらいなら待たせてもらいますよ。さすがに暗い夜道をひとりで帰らせたら、繭子のご両親に申し訳が立ちませんし」
信夫にしては珍しいことを言うものだ。少しだけ感心してしまう。しかし。
「いいえ、私が送りますのでご心配なく」
そんな信夫の気遣いを、基経はばっさりと切り捨てた。
「え、いやそういうわけには」
「ご心配なく。あなたは梨恵子さんを送って差し上げてください」
狼狽える信夫をよそに、梨恵子はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、わたしたちは帰りましょう。信夫くん」
梨恵子さっさと立ち上がると、まだきょとんとしている信夫の腕を引いた。
「ほら、帰りましょう」
「は、はあ」
さっさと帰り支度をする梨恵子と、茫然としたままの繭子を交互に見ながら、信夫ものろのろと立ち上がる。
すでにコートを着終え、帰り支度が整った梨恵子は、丁寧にお辞儀をする。
「今日は失礼しました。神社のお兄さん、帰りはまゆちゃんをお願いしますね」
「ちゃんとご自宅までお届けしますから、ご心配なく」
人を荷物のように言わないで欲しい。
それに、今日は手荷物が多いわけでもない。梨恵子のように華奢で小柄なお嬢様ならともかく、自分ならわざわざ送って必要もない。
「あの、大丈夫です! 用が済んだら、ひとりで帰れますから」
すると梨恵子は大きく頭を振った。
「だめだめ、もうすぐ暗くなっちゃうし危ないから、ちゃんとお兄さんに送って貰わなくちゃだめだからね」
「ちょっと、梨恵子」
しかし梨恵子は「聞こえなーい」と知らん顔しながら、信夫の袖を引っ張りながら「じゃあまたね」手を振った。
客間を後にする二人に続く基経から、
「あなたは、ここで待っていてください」
そう言い残し、襖は閉ざされてしまった。
用事があるというのだから、大人しく待っていた方がいいんだろうな……。
八重子がやって来るまで、大人しく待つことにしよう。
ひとりきりになった客間は、しん、耳が痛くなるほど静かだった。
ボーン……。
時計が時を告げる音が聴こえる。あれから三十分経ったようだ。
ずっと座っているのが落ち着かなくて、湯呑茶碗やお菓子の包装をお盆の上に片付けたり、曲がった座布団を直してみるが、
ふう、と吐いた息が薄っすらと白い。
人がいなくなったせいで、さっきより部屋の中が寒くなった気がする。
まだしばらく来ないよね。
繭子は、そろりと火鉢に近づいた。
手をかざしてしゃがみ込むと、じんわりと熱が伝わってくる。
「……あったかい」
溜息まじりに呟くのとほぼ同時に、背後の襖がすらりと開いた。
八重子が来たようだ。
慌てて手を引っ込め居ずまいを正すと、忍び笑いが聞こえてきた。
この声は……。
振り返ると、お盆を手にした基経が小さく肩を震わせていた。
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