2章 夫婦銀杏の怪異
1 大晦日の出来事
『よかったら初詣も、ご奉仕願えませんか?』
神社の跡取り息子、
七五三詣での巫女仕事を手伝わされたのは、つい先月のこと。その時はギンナン泥棒をしたことを盾にされ、無償でご奉仕する羽目になった。
給金が貰えるなら引き受ける、と半分冗談で答えたものの、本当に再度の誘いが来るとは思っていなかった。
* * *
「お母さん、お客さん」
繭子の弟、
声変わりをしたせいもあり、一瞬父の声かと思ってしまう程だ。
小さい頃はあんなに可愛かったのに……。
最近は見てくれだけではなく、態度まで可愛さが失われ、姉としてはやるせない。
下の弟の
繭子は溜め息を吐くと、筆を取った。
気持ちを落ち着けて、お祝箸の箸袋に筆を落とす。
これでも習字は得意なほうである。毎年祝い箸に家族の名前を書くのは、繭子の仕事となっていた。
居間に置かれたラジオからは、流行りの歌謡曲が流れる。無意識のうちに鼻歌を口ずさみながら筆を動かしていると、母がひょいと顔を出した。
「繭子、お客さんよ」
「え? 梨恵子?」
「ううん、神社の、
「……え」
繭子は慌てて筆を置くと、炬燵から飛び出した。
母は繭子の驚き様に、ふふふと笑う。
「また巫女さんのお仕事をお願いしたいんですって」
初詣のご奉仕の依頼をほのめかされていたものの、まさか本当に連絡が来るとは思っていなかった。
しかも今日は大晦日。今更言われても、こちらだって都合というものがある。
「上がっていただこうと思ったんだけどね、遠慮されて玄関にいらっしゃるのよ」
「待ってお母さん、断ってくれたんでしょ?」
元日は祖父母の家に新年の挨拶に行くのが、毎年の恒例となっている。日帰りで行ける距離だが、大抵泊まりになることがほとんどだ。
だから当然、断ってくれたものだと思っていたが。
「娘さえよければ、お引き受けしますって返事しておきましたよ」
「お父さんは?」
「町内会の集まりよ。お父さんだったら多分大丈夫。繭子の巫女さん姿、お正月は見れるかなあって楽しみにしていたから」
いつもの口やかましく厳しい父は、どこへ行ってしまったのだろう。
「すみません、お待たせしました」
母に追い立てられるように玄関へ向かうと、そこには着流しに羽織姿の基経がいた。
銀鼠色の渋い色合いの羽織に、灰色のマフラーを巻いている。着なれているのか、着流し姿が板に付いている。
大きな風呂敷包みを手にしているところを見ると、ご挨拶回りの途中といったところだろうか。
「こんにちは、繭子さん。お久しぶりです」
少し気恥ずかしいのは、久々の再会だからなのか、すっかり油断した格好をしているからなのか。髪も適当に櫛を入れて下ろしたままだったことが悔やまれる。
顔を出す前に身支度の暇すらくれなかった母が恨めしい。
「……お久しぶりです」
不機嫌そうな、ぎこちない挨拶になってしまった。
「もう、すみません。愛想のない娘で」
母は頭を下げながら、繭子の背中を軽く叩く。痛い、と抗議するが知らん振りだ。
「いえ、こちらこそ突然お訪ねしたのはこちらですから」
「いえいえ、とんでもない。こんなところでは寒いでしょう? よかったら上がってくださいな」
「いえ、手短に済ませますからお構いなく」
「まあ、そうですか……ではお茶くらいお持ちしますね」
「ありがとうございます」
そして、母はさっさと退散し、寒々しい玄関に二人きりになってしまった。
「今日は……突然すみません」
さっきまでの飄々とした態度はどこへやら。どこか居心地悪そうに、
どうしたのだろう。何か悪いものでも食べたのだろうかと、少し心配になる。
「……話は、母から聞きました」
「はい。母上からはお許しをいただきましたが、後はあなた次第だと」
「急なお話で驚きました」
「ですが、前にお願いしていましたよ?」
「でも、きちんと頼まれたわけではないじゃないですか」
「……確かに」
基経は納得するように頷くと、再び押し黙ってしまう。
一体どうしたのだというのだろう。
何か不味いことを言ってしまっただろうかと、気になってきた。
「……もしかしたら声が掛かるかな……とは思っていましたけれど、もうさすがに無いだろうと思っていました」
「ということは、まだ希望はあるということですね」
「え?」
基経は顔を上げると、笑顔も浮かべず至極真面目にこう告げた。
「繭子さん。よかったら初詣も、ご奉仕願えませんか?」
「え……と」
真正面から頼まれると、どうにも断りづらい。
明日は祖父母の家にご挨拶があるので、と告げようとしたが、口から出たのは違うことだった。
「お給金は……」
ぽろり、と出た言葉に、繭子自身が驚いた。
「お給金、ですか?」
「ええと、あの、その……今回はお給金はいただけるのでしょうか?」
ああ違う。こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
一瞬、基経の顔が、鳩が豆鉄砲を食らったようなる。が次の瞬間、堪え切れないといったように噴き出すと、小刻みに肩を震わせて笑い出した。
「確かに……次回はお給金を貰えるならって言っていましたね。ああ、もちろんただとは言いません。きちんと給金はお支払します」
笑っているせいで声が震えている。
さすがにいきなりお金の話をするのは、自分でもどうかと思う。とはいえ、そんなに笑わなくていいのではなかろうか。
「では、繭子さん。引き受けてくださるのですね」
ここまで言わせて、今更断るわけにはいかなくなってしまった。
しかも、基経がなんだか少しだけ嬉しそうな様子だから余計にだ。
「…………はい」
短い葛藤の後、繭子は頷いてしまった。
ああ、わたしの馬鹿!
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