5 逢魔が時の

「繭子ちゃん。これをご家族に」


 玄関の三和土で靴に足を入れた時だった。包装された酒瓶を抱えた宮司……基経もとつねの父である基治もとはるが、急ぎ足でやってきた。


「お神酒のおすそ分けをと思ってね。お父さんは吟醸酒はお好きかな」


 お神酒だったのか。それはありがたいが、かなりの大瓶だ。


「はい。ありがとうございます」


 受け取ったお神酒はずっしりと重たい。吟醸酒がどんなものかはわからないが、きっといいお酒に違いない。

 間違いなく父は喜ぶだろう。とはいえ、これを落とさず無事帰宅できるか、少々不安だ。


「父さん、一升もあるお神酒を持たせるのは如何なものかと……」


 繭子が抱えるお神酒を見て、基経は眉を潜める。


「いやなに、お前が持つこと前提だからこそだ」

「わかっていますよ。男だって重たいものは重たいのですから、せめてお茶菓子にしましょうよ」

「だったらお菓子も追加しようか。繭子ちゃん、羊羹とカステラだったらどっちが好きかな?」

「えぇ……これ以上荷物を増やすつもりですか」


 基経は、やれやれと溜め息を吐く。


「……あの! お菓子は昨日たくさんいただいたばかりですから。お気持ちだけで十分です、ありがとうございます」


 基経もきっと疲れているだろう。そんな彼に、これ以上負担を掛けるのは忍びない。それにお菓子は昨日いただいたばかりだ。

 そう、基経が手にしていた大きな風呂敷包みには、たくさんの最中が入っていた。


「それに、わたしは力持ちなので、ひとりで持って帰れます。平気です」

「何を馬鹿なことを言っているのですか。いくら力持ちの繭子さんでも、さすがに重たいですよ」

「平気ですよ、これくらい」

「力自慢をしたいのでしたら、また別の機会にしましょうか」

「自慢したいわけではありません。それに今日は皆さんはお疲れでしょうから」

「それはお互い様です」


 基経は三和土に降りて草履に足を通すと、ずいと手を差し出した。


「年頃のお嬢さんに重たい荷物を持たせた上、暗い夜道をひとりで歩かせるなんて、冗談じゃありません。うちの神様からお怒りを買ってしまうではありませんか」

「そんなことは」

「あります」


 やけに、きっぱりと基経は言う。


「だから。私が神様のお怒りを買わないためにも、あなたも協力してください」


 何を馬鹿なことを。

 そう思いつつも、断言する基経には逆らいづらい妙な迫力があった。


「…………わかりました。ではお願いしていいでしょうか」

「無論です」


 繭子がお神酒を差し出すと、基経は神妙な面持ちで受け取った。


「では行きましょうか。父さん、ちょっと行って参ります……おや」


 振り返ると、基治の姿はすでになかった。代わりに、風呂敷に包まれた菓子折りらしき箱が置かれていた。


「……ふむ。父は菓子折りに化けましたか」


 風呂敷包みを持ち上げて、にこりともせず呟く。


 この人は……真面目な顔をして、何をおかしなことばかり言っているのだろう。

 基経に気付かれないよう、繭子は今にも吹き出しそうな笑いを堪えるのに必死だった。


 * * *


「お詣りですか?」

「佐和子さんに、今はもう空いているだろうからって勧められたのですが、やっぱり改めて来ようと思います」


 せっかく神社に来たというのに、お詣りもしないで帰るのはもったいない気もする。しかし疲れている上、基経に荷物を持たせているし、何より陽も暮れて寒い。

 佐和子には悪いが、さっさと帰りたい気持ちでいっぱいだった。


「それがいいと思います。そろそろ逢魔が時を向かえる頃ですからね」

「おうまがどき、って何ですか?」


 聞きなれない言葉に首を傾げると、基経は妖しげに薄く微笑む。


「夕暮れ時……異界とこの世を繋ぐ境目となるこの時間のことを『逢魔が時』と呼ぶのです」


 そう言いながら、基経は空を仰ぐ。つられて繭子も空を見上げる。


「まだ明るかったのに……陽が落ち始めると、あっという間ですね」


 さっきまで夕焼けで朱色に染まり始めていた空は、すでに濃紺の夜の色に染まり始めていた。


「今は秋ではありませんが、陽が早く落ちる様を『釣瓶落つるべおとし』に例えるとは、昔の人は上手いことを言うものですね」

「あの……『おうまがどき』になると、何が良くないのでしょうか」


 すると、基経はにこりともせず淡々と語り出した。


「逢魔が時は、魔物や禍に遭遇しやすい時刻と言われています。それは神域である神社でも同じです。例えば、呪いの藁人形というのも……」

「こ、怖いこと言わないでくださいっ」


 咄嗟に話の腰を折ると、基経は薄っすらと笑みを浮かべる。


「おや、繭子さんは、この手の話が苦手でしたか」


 その余裕綽々な顔が、何とも腹が立つ。

 怖いなんて、気付かれてたまるか。


「べ、別に平気です。それに魔物なんているわけがないじゃないですか」


 基経が笑うものだから、つい意地を張ってしまった。だが、それがいけなかった。


「平気でしたら、近道でよろしいですね」

「近道?」


 基経は垣根の前で止まった。薄暗いから気付かなかったが、朝通った門とは違う方向へ歩いていたようだ。


「怖い話が苦手なら辞めておこうと思ったのですが、実はここが一番の近道なんです」


 垣根の隅に小さな門扉があるようだ。小さく軋んだ音を立てて、門扉を押し開く。

 繭子も後に続くが、道路ではなく境内に出たことに気が付いた。しかも、目の前には夫婦銀杏がそびえ立っているではないか。


「玄関から出ると、大通りにはやや遠回りになるものでして。お使いに行く時はよく私も使っています。ああ、家の者には内緒ですよ」

「…………はい」


 ああ、正直に苦手だと言えばよかった。

 ぶるり、と震えたのは、寒さのせいだけではなかった。心なしか、空気がひんやりとしている気がする。

 冬だから寒いのは当たり前かもしれないが、身体が震えるほどではないはずだ。


 境内に足を踏み入れると、足元の玉砂利が音を立てる。

 繭子が恐る恐る歩いているのに、基経は慣れた足取りで玉砂利の上を進むと、夫婦銀杏の前で一礼した。


「すみませんが、通らせていただきます」


 いくら近道とはいえ、御神木の横を黙って素通りするのは、さすがの基経も失礼だとは思っていたらしい。 

 繭子も、基経にならって一礼する。

 今日限りですので許してくださいと、心の中でお詫びする。


「それでは行きましょうか」

「はい」


 ふと、夫婦銀杏の前に、誰かがいるような気がした。


「どうかしましたか」

「あ……いえ。何でもありません」


 基経が変なことをいうからだ。

 慌てて基経の後に続こうと、夫婦銀杏に背を向け歩き出そうとした時だった。


 ふっと、視界の隅に何かが掠め、反射的に目がそれを追っていた。

 視線の先には髪の長い女性が、浴衣の上からでもわかるほど大きく腹部が膨れている姿で立ち尽くしていた。


 ああ、妊婦さんか。


 参拝者がまだ残っていたらしい。安産祈願にでも来たのだろう……と思ったが、何とも言えない違和感が付きまとう。

 基経に追いつき、歩いたこと数歩。ようやくその違和感に気が付いた。


「あ……」


 繭子は思わず足を止めた。それに気付いた基経も、同じく足を止めて振り返る。


「どうかされましたか」


 今は真冬だ。この寒さの中を、身体の線がはっきりわかるほどの薄着をしているだろうか。

 確かめるのが怖い。でも……。

 そして……そろりと背後を振り返った。


 ……いない。


「繭子さん、どうされましたか?」

「わっ!」


 驚いた拍子に、かくんと膝の力が抜けた。そのまま地面に膝をついてしまう。


「大丈夫ですか?」

「はい……大丈夫です。自分の影に、驚いてしまっただけです」


 そうだ。あれは気のせいだ。自分に言い聞かせようと、頭の中で繰り返していると。


「すみません。私があんな話をしたから」


 基経は手を差し出した。繭子は一瞬戸惑ったが、恐る恐るその手を取った。

 基経の手は、少し乾いていて冷たかった。

 手を引かれ、立ち上がりながら、繭子は恐る恐る訊ねる。


「……逢魔が時の話、冗談だったのですか?」


 その通りです。その話は作り話です。

 てっきり、そんな言葉が聞けるかと思ったが。


「さあ……どうでしょう」


 基経は、遠くを見たまま薄く微笑むだけだった。


 

 

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