6 夫婦銀杏の幽霊

 お正月も明けて、新学期が始まった。

 あれからギンナン神社へは行っていない。行こうと思っていた初詣も、何だか怖くて行かずじまいだった。


 あの女の人は、一体何だったのだろう。


 あの人も、夫婦銀杏に願掛けをしたのだろうか。戦地へ行った旦那様を待っていたのだろうか。

 あの辺りも、空襲で亡くなった人は多い。もしかしたら。あの女の人は、身重のまま、旦那様とも会えないまま……。


「まゆちゃん!」

「わっ」


 同時に、背後に重たいものがのし掛かる。

 驚いて飛び上がりそうになるが、声を掛けてきたのも、今べったりと背後に取り付いてえいるのも、幼馴染の梨恵子だと理解した。


「どうしたの? 浮かない顔して」

「ああ、うん……」


 気付くと、教室には誰もいなかった。

 日誌を書き終わった後、ぼんやりしていたようだ。


「暗くなっちゃうよ。帰ろう?」

「うん、そうね……」


 日誌を閉じると、帰り支度を始める。そんな繭子を眺めながら、梨恵子は「わかった!」と弾んだ声を上げた。


「まゆちゃん、好きな人できたんでしょ! 恋の悩み相談なら梨恵子に任せて!」

「違います」


 照れもせず、きっぱりと告げる。


「お正月、また巫女さんのお仕事してきたんでしょう? あの宮司のお兄さん、絶対まゆちゃんのこと気に入っていると思うの」

「違います。便利に使われているだけです」


 予想していた通りだったことに呆れつつ、繭子は即座に答えた。

 梨恵子が何でもかんでも、恋にしようとするのはわかっている。こういう時は、しっかり、きっぱり否定しないと、いつまでも終わらない。


「もう、照れなくてもいいのに」

「だから違うってば、幽霊を見て……」

「え、幽霊?!」


 ぱっ、と梨恵子の表情が輝く。

 恋愛から話を逸らそうと、とっさに口にしてしまったことを後悔する……が、後の祭りというやつだ。


「どこで見たの? どんな幽霊だったの?」

「ええと……」


 どうしよう。正直に答えたら、絶対に「見に行きたい」と言うに違いない。しかも場所は、あの神社だ。

 どう誤魔化そうか考えていると、梨恵子が「あ!」と声を上げた。


「わかった。ギンナン神社でしょ」

「えっ」

「あ、当たった」


 梨恵子は喜々として手を叩く。

 当てずっぽうだったらしい。うっかり馬鹿正直に反応してしまった自分が恨めしい。


「それで、どんな幽霊だったの?」


 興味津々な様子で、繭子の顔を覗き込んでくる。

 隠してもしかたがない。繭子は諦めて白状した。


「夫婦銀杏の前で、女の人の幽霊らしきものを見たの」

「やだぁ、怖い。それで?」

「それだけ」

「それだけ? 襲ってきたり、夜もまゆちゃんの家に出てきたりするの?」

「ううん」

「じゃあ、夢に出てくるとかは?」

「ううん」

「…………あんまり怖くないじゃない」


 もっと恐ろし気な幽霊を期待していたのだろう。

 あからさまにがっかりする梨恵子を見ていたら、ずっと怖がっていた自分が馬鹿らしくなってきた。


「そうだね、あんまり怖くないね」

「そうよ、全然怖くなーい」


 二人でしばらく笑っていると、梨恵子は「そうだ」と再び目を輝かせてきた。

 今度は、何故だか嫌な予感がする。


「確かめに行こうよ、まゆちゃん!」


 嫌な予感が的中した。


「……あのね、銀杏を拾いに行った時のこと、忘れていない?」

「恋のおまじないのこと? あの時はごめんね」


 あまりにも、さらっとした謝罪に繭子は愕然とする。

 基経に見つかった途端、繭子を置いて逃げ出して、その上謝罪に行こうと誘ったにもかかわらず逃げ出して……。

 あの時の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆けめぐり……怒りを通り越して、ただもう呆然とするしかなかった。


「……とくかく、わたしは行きません」


 やっぱり、梨恵子に話したのが間違いだった。繭子は椅子から立ち上がると、背もたれに掛け経ったコートに袖を通す。


「そうだわ。信夫くんに付いてきてもらいましょうよ」

「どうしてここで信夫くんが出てくるの?」

「だって信夫くん、頼りがいがあるでしょう?」


 梨恵子にとってはそうかもしれないけど……。

 信夫は繭子や梨恵子よりも二つ年上で、小さな頃はいわゆるガキ大将と呼ばれる少年だった。

 横柄ではあるが意外と面倒が良いところもあり、なんとなく腐れ縁で、会えば話もするし、ご近所だから家同士の付き合いもある。


「それに信夫くん、格好いいし、優しいじゃない?」

「そうかなぁ……」


 格好いいかは知らないが、優しいのは梨恵子にだけだ。小さい頃から背が高いことを散々からかわれ、ついこの間だって見上げ入道呼ばわりだ。


「じゃあ決まりね! 信夫くんには、わたしがお願いしておくから」

「勝手に決めないで。行かないったらいきません」


 冷たく言い放つと、梨恵子は驚いたように目を見開いた。そして、その大きな目には次第に涙が滲んでくる。


「ひどい……梨恵子、まゆちゃんのためにと思って言っているのに」


 出た。梨恵子の泣き落とし。

 内心うんざりしつつも、泣いている梨恵子を目の前にすると、どうしても罪悪感が拭えない。


「……もう幽霊のことはいいの。困ったことは起きていないし、見間違いかもしれないし。何より暗い時に神社へ行くのはもうこりごり。それに、信夫くんだって忙しいだろうから悪いじゃない」

「でも……」

「ありがとう梨恵子。気持ちだけで十分だから、この話はもうおしまい!」

「えー……」


 すると、突然。教室の戸口がガラリと音を立てて開いた。

 思わず二人揃って飛び上がりそうになるが、姿を現したのは用務員の男性だった。残っている生徒がいないか見回りに来たのだろう。手にしているたくさんの鍵が、じゃらりと音を立てる。


「まだ残っていたのか。早く帰りなさい」

「はい。今から帰るところです。ほら梨恵子、帰ろう」


 ぐずぐずしている梨恵子を促すように、ポンポンと背を叩く。さすがの梨恵子も、仕方がないと思ったのだろう。のろのろと立ち上がった。


「気を付けて帰りなさいよ」

「ありがとうございます。さようなら」

「はい、さようなら」


 用務さんが来てくれてよかった。

 繭子はホッと胸を撫で下ろす。


 だが、これで話は終わったと思っていたのは繭子だけ。

 一旦興味を持ったことを諦める梨恵子ではなかったと、後ほど痛感することになるのだった。

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