3 噂

 ああ、もうどうしよう……。


 境内の片隅で、繭子は竹箒を休むことなく動かしながら、重たい溜め息を吐いた。

 掃除が大変なわけではない。ようやく木々に新芽が芽吹きだしてきたばかり。落ち葉はそこまで落ちていない。

 今繭子の心を重たくしているのは、学校での出来事だった。


「私、元日に銀杏神社へ家族と初詣に行きましたの」と、芙蓉の君こと遠山三和は、涼やかな瞳を輝かせて語り始めた。

 一応由緒ある神社だから、誰が来ていてもおかしくはない。そこで巫女として働いている繭子を見かけたらしい。

 よく学校で梨恵子と一緒にいるから、繭子の顔は覚えていたという。

 そして、夕暮れ時に基経と繭子が仲睦まじく肩を並べて帰る姿を目にした三和は思ったという。

 ああ、繭子は神社の跡取り息子の許嫁なのだと。


 まさか基経の許嫁だと思われているとは、夢にも思わなかった。

 梨恵子も否定してくれればいいのに、ことあろうに「ええっ、まゆちゃん神社のお兄さんと婚約したの?!」なんて言い出すものだから、繭子が必死に否定しても誰も耳を貸してくれなかった。

 やはり芙蓉の君は絶大なる影響力があるらしい。彼女が白と言えば、黒いものまで白になるのだろう。


「はぁ……」


 このままでは、いつ基経を始め、壱重いちょう家の人たちの耳に入ってもおかしくない。

 そうなる前に事態を収拾しなければならない。


 繭子が決意を固めた時、背後から声が掛かった。


「繭子さん」

「はいっ」


 基経の声に、思わず肩が跳ね上がる。

 幸い基経は、繭子が動揺していることに気付かなかったようだ。竹箒と塵取りを手にして、こちらに歩み寄ってくる。


「掃除はその辺でいいですよ。先に休憩にしてください」

「ありがとうございます。塵を集めたら社務所へ戻ります」

「でしたら一緒に片付けてしまいましょう」

「いえ、わたしひとりで平気です」


 誰の目があるかもわからない。あまり基経と行動を共にしない方がいい気がする。

 

「ですが繭子さん」

「本当に平気ですから」


 繭子が頑なに断ろうとすると、基経は困ったように肩を竦める。


「ですが、せっかくの伊勢屋の鯛焼きが冷めてしまいますよ」

「えっ」


 伊勢屋は神社から近い商店街にある、老夫婦が営む和菓子屋だ。寒い時期だけ出す鯛焼きは美味しいと評判である。


「まだ温かいうちにいただきたいとは思いませんか?」


 食べ物に釣られるとは情けないと思いつつ、やはり焼き立ての温かい鯛焼きを食べたい。

 我ながら現金だとは思うが、基経の提案を受け入れることにする。


「……はい」

「さあ、ふたりで早く終わらせましょう」

「ありがとうございます……」


 基経は何も言わず、ただ小さく微笑んだ。


* * * *


 ここ最近は特に行事がらしく、参拝に訪れる人もほとんどいない。お正月の忙しさが嘘のようだ。

 社務所の奥には、おやつの用意がされていた。


「さあ、温かいうちにどうぞ」


 お盆には、緑茶が入った大きな急須と鯛焼き、なんと揚げ餅まで乗っていた。


「揚げ餅は鏡餅のあまりを揚げてみたのですが……少し塩気が足りなかったかもしれませんがご容赦ください」

「とんでもない。とても美味しそうです」

「ゆっくりしてください」


 そう告げると、基経はお茶にも手を付けずに腰を上げる。


「あの、基経さんは?」

「私は後でいただきますからお先にどうぞ」

「でしたら、基経さんから先に休憩を取ってください」


 雇い主より先に休憩だなんて。心苦しいこともあるが、家では何でも父や弟たちが先だから落ち着かない。

 繭子は腰を上げるが、基経はやんわりと押し止める。


「私は少し冷めた、皮が柔らかくなった鯛焼きが好きなんです。だからお気になさらず」

「ですが」

「あと、参拝の方から御朱印を頼まれているので、先に片付けててしまいたいのですよ」


 業務があるからと言われたら、これ以上何も言えない。


「……わかりました」

「では、ごゆっくり」


 基経はそう言い残すと、授与所へと行ってしまった。


 先週の休憩時間も先に取らせてもらったし、帰りもひとりで平気だと言っても毎回送ってくれる。

 今日だって業務があるからと押し切られてしまったが、せめて休憩を取る順番を交互にするとかにして欲しい。


 気遣って貰っているのに申し訳ないが、正直を言うと心苦しかった。

 送り迎えもそうだ。繭子ひとりで帰るのが駄目ならば、弟たちか信夫に頼む等、基経に負担を掛けない方法はいくらでもある。

 

 取りあえず、早く鯛焼きを食べてしまおう。

 誰も見ていないのをいいことに、繭子は思い切り鯛焼きに噛り付いた。

 少し柔らかくなったものの皮は薄く香ばしい。中の小倉餡は、ほっくりとした粒あんだ。程よい甘さが後を引き、慌てなくてもすぐに食べ終わってしまいそうだ。


「ごめんください」


 女の人の声だった。突然の誰何の声に、鯛焼きを喉に詰まらせそうになる。慌ててお茶で飲み下し、 繭子は返事を返した。


「はい。只今」


 口に餡が付いていないか確認すると、急いで社務所の戸を開いた。


「お待たせして申し訳ありま……」


 目の前に立つ女性の姿を目にした途端、繭子は言い様のない既視感を覚えた。


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