21 あなたのことを何も知らない

 ここの神社の元嫁……あの女性ひとが、基経さんの元奥さん?


 基経が結婚していたなんて聞いていない。いや、結婚していないとも聞いていない。

 しかも元、ということは、すでに別れてしまったということなのか。

 初めて聞く話に頭が混乱する。


「……その話、初めて聞いた」

「ああ、繭子は知らないのか。まあ、敢えて人に話す話でもないからなぁ……」


 首筋を掻きながら、キョロキョロと周囲を見渡すと、不意に繭子の肩に手を乗せる。


「信ちゃん?」

「……ひとまず帰るぞ」


 内緒話のように耳元で囁く。繭子も無言のまま頷いた。


 庭にいる二人にはまだ気付かれていないようだ。立ち去り際、何となく気になって足を止めて振り返る。


 その時、ふと振り返った女性と目が合った。


 彼女は最初、そこに見知らぬ人がいることに驚いたようだった。しかし繭子の顔を見た途端、形の綺麗な目を、驚いたように見開いた。


 繭子は慌て顔を背け、信夫の後を追う。


 細面の顔は白いが、やつれた様子はない。

 もうお腹もせり出していない華奢な身体。

 長い髪の、儚げで美しい人。


 知らない人だ。でもあの大きな目の、黒い瞳には見覚えがあった。


 あの女性ひとは……まさかあの時の?


 逢魔が時に夫婦銀杏の下で見た、あの吸い込まれそうな黒い瞳の女性とよく似ている気がした。


* * * 


「……で、さっきの話なんだがな」


 神社から離れ、人通りが少ない道に差し掛かると、信夫は話を始めた。


「あの女性ひとは、神社の長男の元嫁さん。でも長男が亡くなって、疎開先で再婚したって聞いてる」

「……長男って、基経さんのことじゃないの?」

「いや、あの人は次男坊」


 基経に兄がいたなんて、しかも亡くなっていたとは。

 改めて基経のことを何も知らないのだと、繭子は痛感する。


「本当はさ、基経さんと再婚する予定だったらしい」

「え……」

「だけど、戦地に行くことが決まったらしくて。復員してから結婚はずだったそうだ」


 基経さんに結婚の約束をした相手がいたんだ。

 だが、そうおかしな話ではない。しかも彼はゆくゆくはあの神社を継ぐのだろうから、若くして結婚したころで不思議ではない。


 でも、わたし……どうしてこんなにも驚いているのだろう。

 馬鹿みたいにただただ驚いて、何も考えられないなんて。


「そう、なんだ……」


 黙っているのも、信夫におかしく思われてしまう。

 辛うじて相槌を打ってから、ふと疑問に思う。


「え、でも……疎開先で再婚したって……」

「あー、それな……」


 信夫はがりがりと首筋を掻き毟った。


「所属していた部隊が全滅したってさ。誤報だとわかるまで時間が掛かったし、なかなか帰ってくることもできなかったから……まあそいうわけだ」


「……そんな」


 せっかく無事に帰ってきたのに。

 待っていると信じていた人は、もういないなんて。

 その時基経は、どんな気持ちだったのだろう。繭子には想像もつかない。


 ふと、基経の声が脳裏によみがえる。


『彼女はその馬鹿男が望んだ通り、良い相手を見つけて遠方へ嫁いでしまいました』


 これは以前、基経が話してくれた友人の話だったはず。


 確か……。

 繭子は話の内容を思い起こす。


 許嫁がいたけれど、戦地に行くことになってしまって。

 そこは南方の激戦地で、生きて帰ってくることは難しくて。

 自分が死んだら悲しむ許嫁を思って、彼は手紙を書いた。

 自分は戦地ここで良い相手を見つけて暮らすことにしたから、あなたも良い人を見つけて幸せになってくれと。


 死を覚悟していた馬鹿な男は、残念ながら生き延びてしまったと。基経は語っていた。

 所々違うところはあるけれど、信夫から聞いた話と妙に重なる。


「まさか……そんな」


 基経が嫌いだと言っていた馬鹿な友人。

 その人は、まさか……。


 繭子は、ただ茫然とするしかなかった。

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