7 頼まれごと

 帰りに信ちゃんのお店に寄ってみようかしら……。カステラ、早めにお願いした方が安心だしね。


 白いチョークで書かれた文字が並ぶ黒板を見上げながら、繭子は週末のことに思いを馳せる。


 壱重家の皆さん、喜んでくれるといいな。


 楽しいことを考えて誤魔化そうとしたが、すぐに真っ白になる黒板消しを見下ろし、ため息を付いた。


 お嬢様が集まる学級でも、ちゃんと日直の仕事はあるようだ。しかし、一緒に日直となった相川日菜子は、習い事があると先に帰ってしまった。


 お嬢様って、そんなに習い事で忙しいものかしらと、繭子はもう何度目かのため息を付く。

 梨恵子も都合が悪いと「習い事」と言っては逃げ出すものだから、もしや日菜子も同類ではないかと疑ってしまう。


 駄目駄目。一年間、この学級で過ごさなければならないのだから、いちいち猜疑心なんて抱いては駄目だ。


 繭子は真っ白になった黒板消しをふたつ手にして、開け放った窓から身を乗り出した。勢いよく叩くと白い粉が舞い上がる。粉を浴びないよう、黒板消しを叩き終えると、黒板に残った白い文字を拭き上げる。

 その作業をもう一度繰り返し、黒板も黒板消しも綺麗になった時だった。

 背後でからりと教室の戸が開く音がした。


「あら繭子さん。日菜子さんは?」


 この声は。

 振り返ると、一瞬繭子はどきりとする。

 夫婦銀杏で見た、あの女性。あの人の面影と重なるが。


「……遠山さん?」


 そこに佇んでいたのは、級友の芙蓉の君。遠山三和だった。

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と言うが、三和は一輪の百合のように、凛とした佇まい。颯爽とした足取りは、まるで舞台女優のようで、ここが教室だと忘れてしまいそうになる。


「あら、遠山さんではなくて、三和と呼んでくださらない?」

「は、はい……」


 急に親しげにされて繭子は困惑するが、三和の質問を思い出した。


「相川さんは習い事があるからと、先に帰りましたよ。何か相川さんにご用でも?」

「ううん、そういうわけではないの。確か貴方と一緒に当番だと思ったから。まあ、彼女は人を見て判断するところがあるから……仕方がない人ね」


 返事に困り、繭子は曖昧に笑うと、三和は近くの席に腰を下ろす。


「何かお手伝いすることはある?」

「もうほとんど終わりましたから」

「そう?」


 繭子は黒板消しを置くと、開いたままの窓を静かに閉めた。


「繭子さん。教えて欲しいの」

「はい、なんでしょう?」

「あなた、壱重家の息子さんと本当に婚約しているの……よね?」


 確認するような三和の声色。

 三和が現れてから、もしかしたらその話題が出てくるような気がしていた。

 そうだ。訂正するなら今しかない。繭子は背筋を伸ばして三和の方へと向き直る。


「いいえ。ご縁があって、巫女としてお勤めさせてもらっているだけです」


 ようやく言えた。これで三和の誤解がようやく解けた、と安堵したのは束の間だった。


「そんなの困るわ!」


 声を上げた三和に、繭子は驚く。

 眉根を寄せ、駄々っ子みたいな顔をしても、綺麗な人は綺麗なままのようだ。繭子は妙に感心しつつも困惑した。


「困る……とは?」

「わたし、壱重いちょう家の基経もとつねさんとお見合いを勧められているの」

「お見合い?」


 基経が三和とお見合い?

 急に心臓が、どきどきと早鐘のように打ち始める。


「そう。うちの姉が勝手に縁組しようと躍起になっているの。わたしはまだ結婚なんて考えていないし、両親だってこの縁組を快く思っていない。姉の暴走を両親も諫めているのだけど、ひとりで舞い上がってしまって。だから、許嫁がとっくにいるなら姉も諦めてくれると期待していたのだけど」


 三和は頬杖を付くと、これ見よがしに大きなため息を吐く。

 こればかりは、期待されてもどうにも出来ない。基経の許嫁などであるわけがないというのに。そもそも彼にとって、自分はただの労働力でしかないというのに。

 言い返したいことはたくさんあるが、それらを飲み込み作り笑いを浮かべる。


「ご期待に沿えなくてごめんなさい。でも、一度くらいお会いしてみてはどうですか?」

「一度でも会ったら駄目。姉の思う壺よ」


 三和は頬杖を付いたまま、突っ立ったままの繭子を上目遣いで見上げる。


「でも、あなたは好きなのでしょう?」

「……何のことですか?」

「壱重家の基経さんのこと。好きなのでしょう?」


 繭子は無意識に唇を噛み締める。

 それは、心のどこかで自覚していた。でもそれは自覚しても無駄なこと。どう考えても望みなどない。元許嫁と比べられたら、いや比べることすらおこがましい。月とスッポンと言っても過言ではない。

 とてもじゃないが、好いた好かれたの間柄になれるはずもないのに。


「……良い方だと思っています」


 笑顔を貼り付けて答える。やはり三和にとってはお気に召さないようだ。


「どうして? とても親しそうじゃない。貴方たち」

「だから、基経さんとはそんな間柄では……」


 ない、と繭子が言い終える前に、突然三和が「そうだわ」と手を打った。


「わたし、名案が浮かんでしまったわ!」


 得意気に三和は破顔する。

 ふと、梨恵子が名案ならぬ迷案を思い付いた時の表情と重なった。正直、嫌な予感しかしない。


「繭子さんに協力してもらいたいの。わたしのためにも、基経さんのためにも。遠山家と壱重家の問題でもあるのだけど、わたしの話、言いてくれるかしら?」


 遠山家と聞いて、つい先日神社を訪れた三和によく似た美しい女性を思い出す。

 やはり、あの女性は三和の姉に違いない。


「……わかりました」


 聞かなければいいのに、好奇心の方が勝り過ぎた。

 繭子が手近な椅子に座ると、三和は満足そうに微笑んだ。


「実はわたしの姉は……壱重家を恨んでいるの」


 初っ端から不穏な出だしに、繭子は思わす息を呑んだ。

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