5 宮司の青年

「まゆちゃーん」


 翌日の朝、教室に着くと普段と何ら変わりない様子で梨恵子が駆け寄ってくる。

 その姿を目にするなり、どっと疲労感が押し寄せてくる。


「昨日は大丈夫だった?」


 梨恵子は悪びれもせず、ケロリと問う。


「……大丈夫なわけが、ないでしょう」

「それで、ギンナンは? ねえ、まゆちゃん」


 甘えた声を上げる梨恵子に、繭子は溜め息を堪えて力なく首を振った。


「……もしかして、神社の人に見つかっちゃった?」


 もしかしなくてもその通りだ。繭子が大きく頷くと、梨恵子は困ったように眉を寄せた。


「今日改めて謝罪に来いって言われた。形に生徒手帳も取られちゃったから……」


 警察に直接連絡をするつもりはないようだが、学校と自宅にそんなことを連絡されたら堪ったものではない。

 どちらかと言えば、学校よりも親にばれてしまうのが一番恐ろしい。


「帰りに神社に寄るから、梨恵子も一緒に来て」

「え、梨恵子も?」

「当然でしょ。そもそもギンナンが欲しいって言い出したのは梨恵子なんだから」

「えー」


 思った通り、梨恵子は不服の声を上げる。

 しかし、今回ばかり聞き入れられない。そもそも梨恵子が言い出したことなのに、どうして自分ばかりが泥を被らなければならないのだ。


「放課後、迎えに行くからね」


 有無を言わさぬ口調で言い切ると、さすがの梨恵子もしょんぼりと肩を落とした。


「わかったわ……」


 繭子をひとり置いて逃げた負い目もあるのだろう。梨恵子にしては珍しく、素直に頷いた。

 とぼとぼと自分の組へと帰る梨恵子の後ろ姿を目にして、ちょっと可哀想かなと思ってしまう。

 ううん、駄目駄目。

 いくら梨恵子の家に恩があるからと言って、花泥棒ならぬギンナン泥棒の片棒を担がされて、黙ってはいられない。

 ここは心を鬼にして、梨恵子にも一緒に来てもらわなければ。

 あの宮司にこっぴどく叱られもすれば、あの梨恵子だって少しは懲りてくれるはず。

 今後のために仕方がないことだと、つい甘くなってしまう自分に喝を入れる。


 しかし、その約束はあっけなく破られた。

 放課後。梨恵子の学級へ顔を出すと、すでに彼女の姿は無かった。


「澤田さん、急いでいるみたいだったよ」


 梨恵子の級友の言葉に、頭の中で何かが切れる音を聞いたような気がする。


「……そっか。ありがとう」


 梨恵子め……。

 今にも噴き出しそうな怒りを必死に封じ込め、張り付けた笑顔のまま引き戸を閉じると――脇目も振らず繭子は走り出した。 

 繭子の目的地は、当然梨恵子の自宅だった。


 * * *


 結局神社を訪れたのは、日没の後だった。

 自宅まで梨恵子を追い掛けたものの、対応に出た家政婦に「お嬢さんはお花のお稽古に行きましたよ」と告げられ、諦めて一人神社へ重たい足を向けたというわけだ。

 神社の前まで行くと、袴姿の青年が「夜間立入禁止」の立て札を用意しているところだった。恐らく昨夜境内にいた人物で間違いないだろう。


「あの……」


 恐る恐る声を掛ける。すると青年は意外にも柔らかい笑顔で応えた。


「申し訳ありません。今日はもう参拝時間は終了です」


 どうやら昨日のギンナン泥棒だと気が付いていないようだ。これ幸いと引き返してしまいたいところだが、この青年に生徒手帳を取られている。

 仕方がない。

 繭子は意を決すると……決する前に、青年の方が先に気付いたようだ。

 たちまち笑顔は拭い取ったように消え失せる。


「……ああ、昨夜の方ですか」


 切れ長の双眸が、まるで検分でもするかのように繭子を眺める。


 こ、怖い……!

 足が竦む。今すぐここから逃げ出したかったが、そういうわけにはいかない。

 元々は梨恵子に頼まれたことではあるが、実際に立入禁止の境内へ勝手に入り込んだのは繭子なのだから。

 こうなったら、とにかく謝るしかない。


「昨日は、本当に申し訳ありませんでした」


 腹から声を振り絞ると、勢い良く頭を下げる。

 しかし、反応が無い。頭を上げる機会が見つからず、繭子は謝罪の姿勢のまま青年の反応を待つ。

 数秒、いや数分の間があったような気がする。この姿勢もいい加減辛くなってきた頃になって、ようやく青年が口を開いた。


「立て看板があったと思いますが、気付かなかったのですか?」

「申し訳ありません」


 気付いていたが、梨恵子がどうしてもと駄々を捏ねるからとも言えない。


「どうして勝手にギンナンを?」

「申し訳ございません」


 自分ひとりで事が丸く収まれば、それでよし。

 梨恵子には後でしっかりと説教をするとして、この場は謝り倒して穏便に済ませたい。

 しかし青年の口からは、謝罪に対する返答ではなかった。


「大通りのギンナンの方が、実が大きくて美味しいと評判なのに。うちの樹は古いから残念ながらそこまで良い実は取れませんよ」

「それは……そうかもしれませんが」


 彼の言う通りだ。ご神木である夫婦銀杏は樹齢数百年という大樹だ。

 大きくて立派な樹ではあるが、妻の樹に実るギンナンは商店街のものよりもひと回り小さい……と、隣の住人がそのようなことを話していたのを思い出す。


「本当はギンナンではなく、賽銭箱の中身が目当てだったのでは?」

「違います!」


 冗談じゃない!

 繭子は誤解を解くべく必死に訴える。


「ここのギンナンは恋のおまじないに効くっていうから」

「ほう、恋ですか」


 からかいを含んだ青年の声色に、頬がかっと熱くなる。

 自分の話では無い。しかし今更弁解するのも言い訳みたいで恥ずかしい。


「本当にごめんなさい! もう二度とこの神社には近づかないので勘弁してください」


 ますます顔が赤くなるのを自覚しながら、繭子はさらに深く頭を下げた。


「……わかりました。顔をお上げなさい、繭子さん」


 どうしてわたしの名前を? 

 と思ったが、この人に生徒手帳を取られていたことを思い出す。


「糸川繭子さん。今度の休日は空いていますか?」

「は、はいっ! え、えええと休日ですか?」


 予期せぬ質問に頭が混乱して、声がひっくり返ってしまう。

 繭子の慌てぶりがおかしかったのか、今まで能面のようだった青年が小さく吹き出した。

 青年は薄い笑みを浮かべたまま、袂から繭子の生徒手帳を抜き出した。

 返してもらえるのかと期待していたが、生徒手帳はひらひらと繭子の頭上を泳いで、再び青年の袂へと戻されてしまう。


「あの。生徒手帳を返し」

「今週の日曜日、七五三参りの手伝いをしてください」

「え?」


 一瞬、何を言われたのかわからない。頭に疑問符を浮かべていると、青年はたたみ掛けるように説明を加えた。


「七五三参りは猫の手も借りたいほど忙しいのですが、残念ながら人手が我が家の人間だけでは、まかないきれそうにないのです。そのようなわけで、繭子さん。あなたに手伝っていただきたい」

「手伝い?」

「そうです。日曜日来てくれたら、今度こそ生徒手帳をお返ししましょう」

「で、でも……」

「何か用事でもあるのですか?」

「いえ、そういうわけでは……」


 しまった。嘘でも用事あるからと言えばよかった。

 冗談じゃない。こんな神社にまた来なければならないなんて。

 後悔しても後の祭り。言った言葉は取り消せない。何か手立ては無いものかと考えながら、苦し紛れに言い訳を始める。


「そういうわけではないのですけど…………親が」

「親御さんが?」


 青年はわずかに目を見開く。


「はい。親が……両親が、両親に聞いてみないと……いけませんので」


 苦し紛れの言い訳ではあるが、親の許可を得なければいけないのは本当だ。

 特に父親が厳しい。昨日、梨恵子の家で勉強会だと言っていたにも関わらず、嫁入り前の娘が夜更けに帰宅とは(夜更けと言っても七時前には家に着いていたが)けしからんと、一時間近くも寒い玄関でお説教を食らったばかりだ。

 終いに高校なんて行かせないで、花嫁修業でもさせればよかったのだと小言を言い出すからたまったものではない。

 女が外で働くなど言語道断。家を守るのが女の務めなのだと、もう何度聞いたことか。耳にタコが出来るくらい聞いたはずだ。


 そんな父に、神社の手伝いをするなんて言ったら、一体何を言われることか。

 間違いなく父は反対するであろう。だからお陰で正々堂々とした理由で、青年の誘いを断れる。

 しかし。そうは上手くいかなかった。


「ああ、それでしたら大丈夫。すでに親御さんには許可をいただいていますから」


 あまりにも淡々と告げられたものだから、言葉の意味を理解するまでにしばらくの時間が掛かった。


「えっ?」

「だから、すでにあなたの親御さんの許可は取ってあるので問題はありません」


 事も無げに告げられた言葉に、繭子は驚いて言葉を失った。


「それでは繭子さん。今週の日曜日、朝七時にお待ちしております」


 嘘つき。今日神社を訪ねてきたら、返してくれるって言っていたのに!

 じろりと青年を睨みつけるが、相手はまったく気に留める様子もない。


「では日曜日に」


 繭子の返事など待たずに素っ気なくひと言告げると、くるりと背を向けて境内の中へと行ってしまった。


 行くとは、ひと言も言っていない。しかし、すでに彼の中では繭子が来ることは決定事項のようだ。

 しかも、日曜日に手伝いをしないと手帳を返してくれないなんて。

 はっきり言わせてもらうと、ただの脅しだ。


「……この、悪人」


 今の今まで必死に堪えていた言葉を、闇に溶けるように消えた白い背中に向かって、ひっそりと吐き出した。

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