9 馬鹿な男の話

 姿を見ずともわかってしまう。この声は梨恵子だ。間違いない。


「どうしました?」


 突然床に張り付いた繭子を見て、基経は怪訝そうに眉を潜める。

 繭子は必死に「自分は居ないことにして欲しい」と目で訴える。しかし。


「繭子さん、対応をお願いします」


 駄目だ。きっと梨恵子に聞こえた。

 諦めてのっそりと身を起こすと、窓口の外で目を丸くしている梨恵子と目が合った。


「あら、まゆちゃん」


 梨恵子は無邪気な笑みを満面に浮かべる。


「ようこそ、お参りくださいました」


 気恥ずかしさを誤魔化そうと、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。


「本当に神社でお手伝いしていたのね。おばさまから伺ったの。まゆちゃんが神社にお手伝いに行ったって」


 隣りに基経がいるというのに、何の悪びれた様子もない。

 そもそも、一緒に謝りに行こうと言ったのに、勝手にすっぽかしたにも関わらず、何食わぬ顔で神社を訪れてしまう神経が理解できない。


「まゆちゃん、どこから見ても巫女さんね」

「……うん。今日だけね」

「可愛い。いいなあ。梨恵子も巫女さんの格好したいな」


 誰のせいで、こんな格好をしてまで働いていると思っているのよ。と言いたいところを、ぐっと堪える。


 ギンナン泥棒の首謀者は梨恵子だと突き出してやりたいところだが、さすがに言えるわけがない。早く立ち去ってくれることを祈るしかない。


「お守り、買うんじゃないの?」

「ええと、じゃあ、この恋愛成就のお守りにしようかしら。『このギンナンは、当神社のご神木である夫婦銀杏から実ったものです』ですって。やっぱりあの恋のおまじない本当だったんだわ!」


 お願いだから、もうこれ以上何も言わないで。


 心で願うが届く気配は無い。すると、傍観していた基経が、二人の間に割って入るように声を掛けてきた。


「お嬢さんは、繭子さんのご友人ですか?」

「はい。幼馴染みです」

「ようこそ。お守りをご所望ですか?」


 ……ずいぶん愛想がいいじゃない。

 同じギンナン泥棒、しかも梨恵子は首謀者だ。基経は知らないのだから仕方がないと思いつつも、非常に複雑な気持ちだ。


「恋が実るお守りは、薄紅色をおひとつでよろしいですか?」

「はい。でも……この空色のもきれい」


 梨恵子は薄紅色のお守りと、空色のお守りを手に取り、迷うように見比べる。


「こちらの空色のものは、恋が実った後、相手に渡すものなのですよ」

「恋が実った後?」

「ええ。薄紅のお守り袋にはギンナンの実が、空色のお守り袋には銀杏の枝が入っているのです。元々は戦地へ向かう男性が無事に帰還するようにという願掛けが始まりだったのですが……」


 基経の説明はこうだ。

 何百年という長い年月を共にした夫婦銀杏の枝と実は、互いを引き寄せる力があるという。

 だから 戦地へ向かう男性が枝を、帰りを待つ女性は実を。互いに肌身離さず身に付けていれば、必ず再会できるというお守りだったらしい。

 今は男女の恋愛を成就させるお守りとして今も残っているという話だった。


 またこの人は、いい加減な話を……。

 繭子は気付かないうちに眉をひそめる。


「わあ……素敵」


 しかし単純な梨恵子は、胡散臭く思うどころか基経の話に感銘を受けたらしい。


「まゆちゃん、聞いた? やっぱりここの神社のギンナンはご利益があるのね」

「……ええ、そうみたいね」


 自分の話は間違っていなかったとでも言いたいのだろう。

 しかし彼女の話では「満月の晩、誰にも気づかれずに拾ったギンナンの実」だった気がする。取り敢えず、この神社のギンナンに恋愛成就のご利益があるという点は同じだ、と解釈すればいいのかもしれない。


「じゃあね、まゆちゃん。神社のお兄さん、さようなら」

「はい、お参りありがとうございました」

「じゃあ、頑張ってね。まゆちゃん」

「はいはい」 


 手を振りながら去っていく梨恵子の姿が見えなくなると、大きく息を吐き出した。


「……天真爛漫な、お嬢さんでしたね」

「ええ、生まれながらのお嬢様ですから」

「なるほど。ずいぶん振り回されていそうですね」

「ええ、まあ……」


 様々な思いを心の底に沈めると、繭子はふと訊ねた。


「……さっきのお守りの話ですけど、本当ですか?」

「ええ、本当ですよ」


 意外な返事に、繭子は驚いた。


「デマカセだと思っていましたか?」

「……いえ、別に」


 図星である。しかも取り繕うのに失敗した。


「繭子さんは正直ですね」

「すみません……」


 繭子が首を竦めると、基経は苦笑する。


「本当に御利益があるかはわかりませんが、戦中は密かにうちの夫婦銀杏の枝と実をお守りとして持っていく人が多かったのは事実です」

「それは……知りませんでした」


 夫婦銀杏にそんな素敵な逸話があるとは思わなかった。

 幼い頃からずっと恐れる気持ちしかなかったものだから、夫婦銀杏に申し訳ない気分になってきた。


「……そう、当時その中に馬鹿な男がいましてね」


 不意に基経が語り出した。

 何の話を始めるというのだろう。

 幸いお守りやお札を求めに訪れる人もいない。繭子は基経の話に耳を傾けた。


「男には許嫁がいましてね。多くの男女と同じように、銀杏の枝と実を互いに持ち、必ず生きて帰ると誓い合った。だが男が配属されたのは遠く離れた南方の地で、生きて帰るのは非常に難しい激戦地でした」


 激戦地。ふと梨恵子の兄を思い出し、繭子は唇を噛んだ。


「最初は何が何でも生きて帰ると思っていましたが、仲間が次々と亡くなっていくのを目の当たりにしているうちに……さすがに無理かもしれないと思い始めたのでしょう。自分が死んで許嫁が悲しむ姿を思うだけで胸が潰れそうだった。だから、自分が死んでも彼女が悲しまないように、手紙を書きました」

「手紙、ですか?」


 自分が死んでも悲しまないでくれ、とでも書いたのだろうか。

 でもそんなのは逆効果だ。明日をも知れない状況下に置かれた許嫁が、自分を気遣うような言葉をくれたら、きっと余計に悲しくなってしまう。忘れられなくなってしまうだろう。


「どんな手紙を書いたのでしょう」

「その男はこう手紙に書いたのです。『自分が今いる南方の土地は、気候も穏やかで住人達も優しく美しく、まるで極楽のような場所だ』と。そして『実をいうと、この国で私は許嫁であるあなたよりも大切に思う相手とめぐり会ってしまった。戦争が終わっても、ここに住まおうと思う。だから私のことは忘れて、あなたも良い相手を見つけて幸せになって欲しい』と。その馬鹿は、許嫁にこのような手紙を送ってしまったわけです」

「そうですか……」


 確かに馬鹿かもしれない。その男性は。

 そんな見え透いた嘘の手紙など、許嫁の女性が信じるわけがない。


「それで、そのご友人は……?」


 南方ではたくさんの犠牲者が出たと聞いている。その中に梨恵子の兄も含まれているのだと思うと、何とも言えない複雑な思いに捕らわれる。


 基経はため息を付くと、非常に無念そうに呟いた。


「その馬鹿は……生き延びてしまったのです」

「そうですか……って、え?」


 惜しむような言い方だったから、一瞬聞き間違えたかと思ってしまった。


「助かったのですか?」

「残念ながら」

「残念なんかじゃないです。よかったじゃないですか」


 せっかく生きて帰ってこられたというのに、残念だなんてあんまりな言い様だ。

 いくら馬鹿だとはいえ、友人なら普通は喜ぶものではないのだろうか?


「もしかして、そのご友人がお嫌いですか?」

「嫌いです」


 即答されて、繭子は返答に詰まってしまう。

 こういう時は、どう言えばいいのだろう。

 さっきの沈黙よりも輪を掛けて気まずい空気が流れる。こういう時に限って、誰も来てくれない。


「ご友人の……許嫁の方はどうなさったのですか?」

「元気ですよ」


 こちらも即答だった。どうやら基経自身もよく知る人なのだろうか。

 違和感を覚えつつ、基経の話に耳を傾ける。


「彼女はその馬鹿男が望んだ通り、良い相手を見つけて遠方へ嫁いでしまいました」

「そう、ですか」


 そもそも恋愛経験もないような小娘にとって、許嫁や結婚など未知の世界に等しい。相手が期待するような言葉を返せるわけがないのだ。

 恐らく基経自身も、繭子から気の利いた言葉など出てくるなど思ってもいないはずだ。


「馬鹿のいた部隊は玉砕したと誤報されたそうです。すぐに帰還できれば誤解も解けたのでしょうが、終戦からずいぶん遅れたのが致命的でした」

「…………」


 ちらりと基経を盗み見る。

 彼の真っ直ぐな視線の行き先は、境内にそびえ立つ二本の銀杏の大樹だった。


「でも」


 こんなことを言ってもいいのだろうかと思いつつ、繭子は思い切って言ってみた。


「銀杏の御利益、ありましたよね?」


 大樹を見つめる基経の目が、不意に揺らぐ。

 あれ、不味かったかな……?

 でも一度言葉にした途端、言わずにはいられなかった。


「空襲で、町が焼けて、神社も焼けて……焼野原になったというのに、夫婦銀杏だけが無傷で残っている姿を見て、思ったんです。この樹には神様が本当に宿っているんだって」


 基経は口を挟まず、無言のまま頷いた。


「あれだけ周囲が焼けたのに、あの樹だけ無傷だなんて……ずっと怖いと思っていました」

「今も、怖いですか?」

「怖かったんですけど……今は平気みたいです」


 繭子が肩を竦めると、基経は薄くほほ笑む。


「今のお話を聞いて、思ったんです。神様の樹は皆の願いを叶えるために、残ってくれたんだなって」

「なるほど……それで?」

「ご友人と、その許嫁の方も、夫婦銀杏のお守りを持っていたのでしょう?」


 反応はないが、繭子は言葉を続ける。


「許嫁の女の人の願い、ちゃんと届いたんですね」

 許嫁の女性は、手紙に書いた嘘なんてお見通しだったに違いない。

 誤った連絡が届かなければ、きっと相手を待っていたと思う。


「女の人がもし今幸せなら、男の人の気持ちも、ちゃんと届いたのではないかと思います」 


 ややあってから、小さな呟きがぽつりと落ちる。


「……なるほど。そうとも考えられますか」


 苦笑とも、吐息ともいえない苦いものが、基経の唇からこぼれ落ちた。

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